――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(32)
鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)
「自分の久しく尊敬していた王景春君」の話は、まだ続く。
「日清戰爭、それは自分達の直ぐ眼の前であつた戰爭」だったが、「自分達は之に對し全然無關心であつた」。「自分達の國が日本といふ國と戰爭してゐるといふ意識がはつきりと吾々の腦裡になかつたのである」。ところが「殊に革命以後支那上下の間には中華民國といふ思想、支那民族といふ觀念が次第々々に明白に意識せらるゝやうになつて來た。ナショナリズムの勃興が即ち是れである」。
このナショナリズムを刺激するような事件が「鋭き支那人の神經をいらだたせるやうになつて來た」。「露西亞の侵略に比すれば日本の侵略のごときは遥かにせゝこましきものであつた」が、「當時の支那人は之を以て支那民族に對する迫害といふ感覺を抱いてゐなかつた」。長期に亘るイギリスの「南支那に對する壓迫」にしても、「當時の支那人は之を以て支那の國家を危うするものである」と考えることはなかった。
だが、「日支交渉、山東問題に至つては、既に支那人の國家意識が明瞭に甦つた後」であったから、「全支那を擧げて之(反日)に狂奔するやうになつ」てしまった。つまり露・英・米・仏・独の各国とは違って、日本は高揚著しい国家意識・民族意識の真っただ中に突っ込んだことから、“飛んで火に入る夏の虫”にされてしまった。であった。であればこそ支那から集中砲火を浴びただけではなく、先行する露・英・米・仏は自国に向かってくる国家意識・民族意識という火の粉を避けるためにも、陰に陽に日本を攻撃したに違いない。もちろん各国は共に“善人ズラ”をして。これが国際政治というものだろう。
「自分の久しく尊敬していた王景春君」は、さらに言葉を重ねる。
たとえばハルピンだが「大勢の支那苦力が居る。大勢の露西亞人が居る」。第1次世界大戦以前の「露西亞の國權が強大であつた時には、露西亞人は支那人を奴隷の如くに虐使し」たが、「支那人は唯々諾々としてその虐使に甘んじてゐた」。だがロシア革命の結果、「傲岸不遜の露西亞人は國を失つて今は喪家の狗」のように意気消沈するばかり。これとは反対に「甞つて惴々焉たりし支那人は鷹揚闊歩するやうになつた」。「從來と主客全く處を轉じ」た結果、「支那の苦力すら露西亞の勞働者を眼下にみおろす樣になつた」。
なぜ「從來と主客全く處を轉じ」たのか。「支那の苦力は自問自答し」た結果、「支那國家の權力の増大」を自覚したのである。「支那國が強くなれば自分達自身の意思も斯の如く幸福になるものであるといふ事」を骨身に染みて痛感した。「新しき國家精神」の自覚である。
「その國家精神」は、文字を知るのもが国の内外状況を読み聞かせることで「無智な、無�養な人々の間に擴がる」。「斯樣にして支那の政治問題が、下層階級に行き渉つてゆく」。
こうして「新しい國家精神」、つまりナショナリズムが拡大するのであった。
――以上が王景春の主張の概要だが、鶴見は「自分の聽いた中で一番面白い話」と認める。全土で目撃した「支那に於ける民族的自覺」を「爭ひ難き時代相」と見做す鶴見は、「吾々が輕蔑してゐたところの支那人の中に、今新な國民的自覺が擡頭して居る」だけではなく、「その國民的自覺を抱かんとして居る民衆の數は四億萬人である」と思い至る。
では「この支那のナショナリズム」は、「如何なる方向に嚮ふものであるか」。
3年前にニューヨークで席を共にしたアメリカ女性の「ナショナリズムが起つた時には日本と支那の戰爭が屹度起こります」との断言に加え、先頃に上海で会ったアメリカ青年を思い出す。彼は「支那に於てナショナリズムが起つて來るならば、その目標は日本だけではな」く、遠からずして「英國及米國にの嚮ふの日があることを感得する」と口にした。《QED》