――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(31)
鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)
「外國留學生の失敗である」がゆえに、「支那に於て外國文明に對する反動が起つて來た」。その原因の1つは「支那人にして外國文明を輸入したる留學生の實力が乏しかつた」ことであり、残る1つは「支那に來てゐる外國人が從來の如き五光をさした神壇から引き摺り卸されたといふことである」。
これまで「全く西洋文明に無理解であつた」から、「歐米の最新知識を賣藥の萬能膏の如くに崇拝した」。だが「�育の進歩は、支那人の知識と外國人の知識との距離を接近せしめた」ことで、「東洋本來の面目に立ち歸つて、彼等は新しき眼を開いて外國人を熟視した」。そこで西洋人の本然の姿に気づいた結果、若者の中から「支那の文學を革命して、新しき生命あるものとしなければならぬといふ」文学革命運動が起こった。
「斯の如くにして支那人は、支那人の支那といふ言葉に復活しやうとしてゐる」。新しい視点に立って既往の文明を捉え直し、「偏見と因襲とから脱却した批評眼を以て研究しやうと試み」がなされ、西洋文明に対しても新しい考えが起こってきた――新しき潮流は、「日本の過去に於て起つたと同じ運動である」。そこで「日本の新しき文明の研究といふ事」に行き着いた。北京大学教授の周作人が「日本文學系なる新講座を北京大學に創設して、日本文學の研究を始めたことは、その一例であ」り、若者が日本語研究を始め、日本の新聞雑誌小説に興味を持ち、「吉野博士の議論や、有島武郎氏や、武者小路実篤氏の小説が、支那人に讀まれるやおうになつたのも、その一例である」。
このように「日本の新文化運動が支那の新文化運動と接近すべき運命を以て次第に近づいて來た」わけだが、一連の動きは、「日支親善といふやうな月並な目的の爲に、不自然に養成されたところの潮流」ではなく、「眞理を索める人間の已み難き慾求から發して居る」。
かくして鶴見は、「日本に甞て留學した年若き�授たち」が若者の「思想的中心とならむとしている」状況に、「東洋文化再興の爲に、新しき望みの火の手を揚げるもの」と大いに期待を寄せた。
だが、その後の両国の辿った歴史を考えれば「東洋文化再興」は夢のまた夢だったように思う。いや、そもそも「再興」すべき「東洋文化」とは具体的に何を指すのか。この辺りを精緻に突き詰めない限り、「東洋文化再興」は曖昧模糊たるスローガン、あるいは夢物語に終わってしまう運命にあるように思える。とどのつまり「東洋文化」とは日本人が思い焦がれながら描きだした蜃気楼ではなかったか。
とはいえ、矢張り鶴見の視点は興味深い。それというのも「『一體、日本人は何故こんなに支那人に憎まれるのでせう』といふ質問を、自分は無遠慮に大勢の支那人に出してみた」というのだから。
すると日本でも名の通った政治家は、ロシア・イギリス・フランスの「侵略主義に比べて、日本が特に惡かつたと自分達も考へない」が、日本とは事情が違う。それらの国々によって「支那全體を奪はれるといふ感じは起らない」。だが「日本が滿洲に蟠居し、山東を占領するといふことであれば、吾々はいつ何時支那の本土を侵略せられるかも知れないといふ虞が終始起つて來る。故に日本の一不正行爲に對しても吾々が躍起となつて攻?する所以である」と応じた。
この主張が腑に落ちない鶴見は、「自分の久しく尊敬していた王景春君」に同様な質問をしたのである。すると王は「ゐずまひを正して」、「それは一言にして盡きる。現代支那のナショナリズムの自覺の故である」。「今吾々支那人は最近數年來始めて支那國民又は中華民國といふ國家意識乃至民族意識を強烈に意識するやうになつた」と口にしたのだ。《QED》