――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(30)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1937回】                       一九・八・初八

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(30)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

北京で鶴見は「有名な英國人」で、「支那で生まれ、支那に生活し、支那人の爲に働いてゐるところの著述家」と会った。「支那現代の政治の紊亂に言及してその理由を尋ね」たところ、即座に「外國留學生の失敗である」という言葉が返ってきた。この一言が鶴見に「深い感動を與へた」というのだ。

じつは「支那は天下の秀才を歐米諸國に送り」、彼らの帰国を待って国内要路に抜擢して留学の成果を発揮させようとした。だが「彼等は徒に外國文明の糟粕を甞め」るばかりで「その眞髓に徹底」しないから、「歸朝以來着々としてその馬脚を現はし、内は支那人の侮りを受け、外は外國人の嗤笑を贏しえたのみであつて、何等實蹟を見ることがなかつた」。最近になって「眞の支那を救ふ者は支那の�養を積んだところの支那人でなければならぬといふ事」に、やっと気づくようなった。

つまり「今日支那の紛亂は、半知半解の西洋文明を輸入したる支那留学生の失敗である」というのが、「北京で有名な英國人」の結論だった。

当時、北京大学教授で社会的影響力を持っていた胡適について鶴見は、「彼の流暢な英語の故に又彼の體得した西洋哲學の造詣の故に今日の聲望を有するのではな」く、じつは「彼の眞の力は、彼が支那文學、支那文明を諒解しているが故である」と記す。

ここで、毛沢東が主導権を握るまでの共産党内のモスクワ帰りとの抗争を思い出す。モスクワでマルクス主義を学び、スターリンの忠実な部下としてコミンテルン中国代表を務めていた王明は、中国革命を領導すべく勇躍として中国に戻った。農村を根拠地に農民を動員することで権力掌握を目指していた毛沢東路線を、王明は極めて遅れたものと強く否定し、モスクワで学んだ労働者を軸にした革命を目指した。

当時の中国社会が圧倒的な数の農民に依って構成され、労働者などは数少ない都市部に住む、それも弱小勢力に過ぎず、彼らが革命の担い手になりえないことは明らかであり、であればこそ毛沢東路線こそが現実的で実現可能なものであった。にもかかわらず王明は共産主義革命における“唯一・絶対者”であったスターリンの支持を背景に、毛沢東路線を否定した。その結果、共産党内に混乱を引き起こし、やがて忘れ去られてしまうことに。

以上を鶴見の表現を援用するなら、共産党は「天下の秀才」をモスクワ留学に送り出し、彼らの帰国を待って国内要路に抜擢して留学の成果を発揮させようとした。

だが「彼等は徒に外國文明の糟粕を甞め」るばかりでマルクス主義の「その眞髓に徹底」しないから、「歸朝以來着々としてその馬脚を現はし、内は支那人の侮りを受け、外は外國人の嗤笑を贏しえたのみであつて、何等實蹟を見ることがなか」く、毛沢東の手で葬られてしまう。その結果、「眞の支那を救ふ者は支那の�養を積んだところの支那人でなければならぬといふ事」に気づくようになった。

歴代の共産党首脳陣をみても、「支那の�養を積んだところの支那人」と呼ぶに相応しいのは、やはり毛沢東だろう。劉少奇、周恩来、�小平などの海外留学経験者からは、「支那の�養を積んだところの支那人」のイメージは浮かびそうにない。

 ソ連にあっても、事情は同じだったようだ。『20世紀ロシア文化全史 政治と芸術の十字路で』(S・ヴォルコフ 河出書房新社 2019年)は、「理論家であり政治家であるスターリンは、レーニンと同様に単純明快で、広範な大衆に分かりやすいスローガンを好んだ」。「ゴルバチョフはフルシチョフやブレジネフより教養のある人物だったが、スターリンやアンドロポフほどの教養人ではなかった」。「スターリンはソビエトの作家たちを『人間の魂の技師』と呼んだ」――と綴る。やはり「半知半解」は混乱を呼ぶだけでしかない。《QED》


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