――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(29)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1936回】                       一九・八・初六

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(29)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

すでに「支那の代議制度の失敗を看破した當時の愛國者は、相次で眼を敎育界に轉じた」が、「その最も著しき一人は、北京國立大學總長蔡元培先生であ」り、「當時の守舊派の本城であつた北京國立大學」で総長を務め、「單身舊思想の巢窟に入て科學の鼓吹に努力した」。

「彼は八方の敵と抗爭し、危險身に及ぶをも意とせずして」、ついに北京大学を全面改組し旧世代教員を放逐し、「北京國立大學を以て支那革新運動の中心」たらしめ、1919年の五・四運動に繋がった。北京大学の蔡元培総長、「南開大學の總長張伯芩、東南大學の總長廓秉文、上海の余日章、南通州の張謇、これ等は皆、胸に經國の志を拘いて子弟を薫陶しているところの敎育家である」。

このように教育界を中心に様々な努力がなされている反面、政局は「倍々低落し、代議政體の失敗は一轉して軍人全盛の專制主義を招來し」、その軍人政治が失敗したことで「各州の分裂となり、州の中心勢力は軍隊を有する督軍の掌中に歸し」てしまい、いまや全土が「春秋戰國の時代の如き紛亂」となった。かくして人民の苦しみを救う者なく、人心荒廃の局に達した。

このような状況において「外國の侵略は日に倍々加はり、或は武力に依る内政の干渉となり、或は經濟力に依る壓迫となり」、教育の普及など望むべくもなかった。だが蔡元培ら教育界の先覚は「支那を濟ふ唯一の途は、支那の子弟を敎育し、新しき理想を以て新社會を建設するの外なき」を自覚し、「支那の代議制度と、軍人制度の失敗は、少數の儒生に國政を託する危險を彼等をして痛感せしめ」た。その結果、「一般普通の敎育の普及に依て、四民國政に參與するの制度を樹立するの必要性を痛感せしむるに至つた」。では、その「敎育熱の中心思想は抑々何にあるのか」。

蔡元培の考えを想像するに、「大體の思想に於て佛蘭西のルソーの説に近似して居ることを推察した」。つまり「自由、平等、博愛の三大義を以て支那敎育の中心思想としやうといふ」のだ。だが、この「三大義」の徹底は「近代の社會組織、國家組織と背馳する」。この難題をどのように解きほぐすのか。

ところで1915回と1916回で言及した王正廷は、鶴見の「新しき支那の敎育の中心思想は何であるかといふ質問」に対し、「それは有用なる市民を養成するに在り」と応えている。そこで鶴見は「ユーズフル・シテーズン即ち有用なる市民」とは「十九世紀中葉に英國に起つた功利主義の倫理觀念を以て基礎とするところの有用といふ意味であるのか」と問うと、次のように応えている。

従来、教育は「支那に於ては、たゞ役人になるといふ一本の途しかな」く、青年が官吏になることを必死に争い、官吏になったら「如何にしてその位置を保せんかと苦心し漸くにして權要の位置に至るや、如何にして老後を安泰ならしめるかと焦慮するやうにな」り、必然的に官吏の腐敗を招くことになる。これに対し「英米佛日等に於ては、敎育ある者は必ずしも官吏となることを要しない」。それというのも「美術、文學、實業、科學百般の事業に從事ことが出來る」。

だから「將來支那の敎育の方針は、支那青年をして各方面に於て人類が國家に盡すといふ精神を鼓吹し、單に官吏となつて老後を安んずることを目的としないやうにしなければならない」。つまり従来の「敎育制度の缺點」が官吏の腐敗の根本にあるということだ。

王正廷の発言からほぼ100年が過ぎたが、中国における昇官発財(幹部になって出世する程に私腹を肥やせる)を可能にする権貴体制は一向に改まらる気配すら感じさせない。つまり、これからも中国では「ユーズフル・シテーズン」は生まれ得ないらしい。《QED》


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