――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(10)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1916回】                       一九・六・念七

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(10)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

 4年前にニューヨークで会った時は「巴里會議で大芝居をうつ前であ」り「若い、併し顔色の惡い東洋人と言ふ感じ」だった。だが、いま鶴見の前に現れた王は「血色のよい、分別ありげなそして中肉中背の頑丈な人に見えた」という。「相見ざる四年、その間に王正廷は世界の政治家と、肱を取つて國家を談じた」のだ。「その責任ある地位と經驗とが、若き王正廷氏を鍛煉したに相違ない」。

 「彼は書生の氣輕な放談の時代を過ぎて、誰にも頼らずに、一國の運命を決すべき瀬戸際に何度も立つて來たのである」と想像した鶴見は、であればこそ「眞向から切り込む勝負だと思」い、「すぐ、問題の核心に突き込ん」で、「一體、我々日本の側としては、どうしたらいゝと、あなたはお考えになるのか」。

 するとどうだ。「果して、返事は矢つぎばやに來た」のである。 

 「從來の日本の對支政策が間違つてゐる。日本の政治家は、支那の一黨派を援助した」。だから「その黨派以外の凡ての支那人を敵とし」てしまった。それがために、「其の黨派の失脚と共に、日本の支那に於ける權威が墜ちた」というのだ。鶴見の「しからば、今後如何にしてよくするか」と問うと、「それはなんでもない。支那國民全部を相手となさい」と。

「我々支那人は惡いことをすると、あなたがたは思つてゐる」。だが、それは「古い政治家」だ。いま民間に有為の民間実業家が生まれつつある。「彼等は個人的經營をする品性と才能とを具へてゐる」。彼らを「公明正大の援助」することで「日支の經濟的共助が行はれる。政治的黨派援助を、おやめなさい」。

 話題が「此の頃に支那の�育熱の勃興」に転じ、鶴見が「一體何を以て、�育の目的となし、中心思想とするお積りか」と問う。すると「王氏はすぐ『有用なる市民を作るにある』と刎ねかヘす程早く答へた」。なお、「有用」には「ユーズフル」、「市民」には「シティズン」のルビが振られている。

 鶴見が「有用なる市民」の実像を問うと、「私が有用なる市民と言ふのは、人間は個人の才能傾向に從つて、社會各方面に於てその分をつくすことを言ふのである」。それというのも「從來の支那の學徒が、官吏となることに局限せられて居たのを矯正しなければならない」からだ。じつは学生は「支那に於ては、卒業後みな官吏を志願するから、勢ひ官吏の腐敗となり、國家の動亂となる」。これとは違って「歐米日佛では官吏以外」の社会各方面に道が開かれているから「人材各その處を得て、國家は安泰に、人民は有用の市民となるのである」ということだ。

 王の「話は大そう面白い話であると思」う一方で、鶴見は王が「會見の大そう慣れて居ることに、氣がついた」。欧米各国で新聞記者などの会見を重ね「如何なる問題を出されても、あはてず騒がず、秩序整然と答辯する技能を具へるやうになつたであらう。若いのに感心なことである」と鶴見は思いながら、翻って「王氏位の年配の日本人で、この位靜に受け流してゆける人が幾人あるであらう」と思い至った。

 この時、王正廷は34歳だった。たしかに「王氏位の年配の日本人で、この位靜に受け流してゆける人が幾人あるであらう」という鶴見の“憂慮”も判らないわけではない。だが、そういう鶴見も王より3歳年長で37歳でしかなかった。おそらく現在の基準で言うなら30代後半は依然として半人前程度といったところだろう。当時の基準からすれば鶴見にしても王にしても、特に2人が老成していたというのではなく、これが普通に近かったのではなかったか。

 やはり教養、品格、見識は山登りやスポーツクラブでは身に付くわけが・・・ない。《QED》


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