――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(24)
鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)
アメリカの建国神話は、17世紀初頭の「巡礼始祖」(ピルグリム・ファーザーズ)から始まる。英国国教会を強制するジェームズ1世の迫害を逃れた清教徒(ピューリタン)がメイフラワー号に乗って大西洋を渡り、プリマスに第一歩を印した後、未開の広大な平野を開拓しながら西へ西へと進み、艱難を克服し粒々辛苦の末に太平洋岸に達した――これが“USA式正統史観”だろう。だが、その裏側で手当たり次第にバッファローを撃ち殺したように、先住民族であるインディアンを虐殺していたはずだ。いわば星条旗の赤のストライブは、無辜の先住民の無念と恐怖の血の色ではなかろうか。
おそらく建国神話の裏側に隠された先住民虐殺というトラウマの裏返しが「新しき支那の目覺を喝采」させるのだろう。であればこそ、「これ等の樂觀的議論を我々は殊に米國の宣�師の間に見る」に違いない。
こう考えると、なぜアメリカが�小平の改革・開放政策に肩入れしたのか。なぜ経済発展すれば民度が向上し、人々の間に民主化を求める声が高まり、やがて共産党一党独裁体制が崩れ、“民主中国”が誕生するなどと夢想したのか。その遠因が判るような気がする。
経済発展によって中国人が手にしたものは向上した民度などではなく、独裁体制をより強固にするための無尽蔵に近い“軍資金”を持ってしまった共産党政権であり、アメリカの“善意”は民主中国とは真反対の習近平一強体制による紅色帝国を作り出してしまった。どうやらアメリカは毛沢東に続いて�小平にまで裏切られたということになる。
世間知では、2度あることは3度あると言う。ということは、いずれ3度目の裏切があると考えておいた方がよさそうだ。
米中関係を日本人の立場から言うなら、アメリカによる最初の、最大級のドンデン返しは何と言っても1972年のニクソン・毛沢東の握手だろう。当時の噂では、大統領専用機がワシントンを出発する数時間前になってやっと、ホワイトハウスから「大統領訪中出発」の知らせが我が首相官邸に届けられた、とか。だとするなら、2度目のドンデン返しに備えておく必要があるはずだ。1970年代初期とは違って、いまやツイッターという強力無比のメディアがあることを、我が政界要路は努々忘れてはならない。
鶴見に戻るが、楽観論に次いで、「ジエー・オービー・ブランド氏の支那論」を援用しながら悲観論に言及する。
「支那の統一を妨げるものは、學生の政治論であ」り、「支那政治の不安定は支那人に染込んでゐるところの金錢慾であ」り、「支那の政治家の弱點はその勇氣の缺乏であ」る。これを総括するならば、「支那人の金錢慾は人口過剩より生ずる生存競爭に根ざすが故に」、人口問題の解決が先決である。だが人口過剰は彼らの根幹である家族制度に起因するがゆえに、「今日の如き家族尊重の傳統を有する間は支那は救濟されない」と。
これを要するに「今日の如き家族尊重の傳統」が改まらない限り、永遠に「支那は救濟されない」ことになる。であればこそ、経済成長がもたらす豊かな生活に伴って猛烈な速さで進行する少子高齢化によって「今日の如き家族尊重の傳統」に歯止めが掛れば・・・とも考える。だが、さて、そうなったとして「支那人に染込んでゐるところの金錢慾」はどうなるのか。限りなく不透明だ。
さらに「學生の政治論」も大問題だ。科挙の伝統から抜け出せず、学問の最終目的を経世済民(せいじ)に置く。であればこそ歴代王朝を揺るがせた政変の背景に儒教的価値観を巡る対立が加わり、権力争いを一層複雑化させてしまう。とどのつまり「學生」、いわば文人・知識人の理屈は精緻に過ぎバーチャルに流れ、屁理屈に終わりがちなのだ。《QED》