――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(14)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1920回】                       一九・七・初五

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(14)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

 南通州だけを考えるなら「その御心配はありますまい」と答えた後、「張謇氏は居ずまゐを正して」、じつは同地においては「土地の収�が全人口を養ふには足りません、一家八口なくては足りないものを、今で一軒當り五口しか耕地がありません」。そこで近辺の海の埋め立てを計画しているというのである。

 鶴見は張謇による民生向上を目指した南通州の開発事業を大いに称え、「支那の先覺者の多くが、張謇氏の如く政治的功名心を抛つて、專心郷國の開發指導に從事する日が到來したならば、それは、支那が眞の國民として、蘇生復活する時であらう」と考えた。

 その後、南通州はともあれ、鶴見の望んだような「支那の先覺者」がいたとしても、戦乱の渦中では「專心郷國の開發指導に從事する」ような暇はなかっただろう。

 鶴見は1945年11月に日本進歩党を結成し幹事長に就任。だが戦前に大日本政治会総務であったことから、46年1月に公職追放処分を受けている。中華人民共和国建国1年後の1950年10月、65歳の時に公職追放が解除となった。公職追放の間、雑誌『思想の科学』を息子の俊輔らに提供し社会に向けた発言を継続した。

そこで思うのだが、さて鶴見は毛沢東による建国を如何に捉えたか、である。毛沢東を「張謇氏の如く政治的功名心を抛つて、專心郷國の開發指導に從事する」「支那の先覺者」であり、1945年10月10日を「支那が眞の國民として、蘇生復活する時」と見做したのであろうか。文革が最盛期を過ぎ、林彪が不可思議な死を遂げ、批林批孔運動が発動され、四人組の専横が猖獗を極めていた頃の1973年に鶴見は死んでいるが、さて最晩年の鶴見は、そんな中国にどのような眼差しを向けていたのだろうか。

 歴史を振り返って思い至るのは、一般に日本では中国を見る目が情緒的に過ぎるという“悪癖”だ。文革のみならず天安門事件、改革・開放政策にせよ、隣国が抱いた淡い期待、あるいは希望的観測に基づいた情緒的見通しなんぞ木っ端微塵に打ち砕いてしまう。これこそが中国政治の本質であることを忘れてはならない。

 『偶像破壊期の支那』の体裁は、前の3分の1が鶴見の訪ねた「支那の先覺者」に関する記述で、真ん中の3分の1が社会に対する観察、残りの3分の1が「現代支那大觀」と題する一種の政策論となっている。というわけで、ここからは社会に関する観察になる。

 先ず気づいたのが道路だ。

 「修繕することなしに幾世紀の使用に服した支那道路は、肩を没する程の深さに摩滅し鑿掘されて居る。其の先祖の轍の刻んだ險惡な道路の上を、支那の農夫が三皇五帝の昔さながらに彈機の無い支那車の上に乘つて、種類の異なる五六頭の動物を御し乍ら無關心に駛つて行く」。

 まさか「肩を没する程の深さに摩滅し鑿掘されて居る」とも思えないが、この部分を目で追ってみて、ひょっとして、これは道路の話ではなく、社会そのものを指しているのではないかとも思った。

王朝の交代は繰り返されてきたが、歴代王朝の権力機構・統治制度は「修繕することなしに幾世紀の使用に服した」ものであり、であればこそ、ちょっとやそっとの智慧や工夫ではどうにもならないまでに「摩滅し鑿掘されて居る」。かくて「其の先祖の轍の刻んだ險惡な」社会制度のままに、「支那の農夫が三皇五帝の昔さながらに彈機の無い支那車の上に乘つて」いるように日々を生き続けるしかない。「種類の異なる五六頭の動物を御し乍ら無關心に駛つて行く」ように、極めて狭い日常空間で生活し、血縁と地縁――言い換えるなら《自己人(なかま)》――に繋がらない世界に対しては余り関心を向けない。《QED》


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