――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(18)
鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)
某日、「手の染まるやうな碧い湖」に臨む古色蒼然とした浄慈禪寺を訪れた。「千百十八年前、高野山の開祖として名高い名僧弘法大師が始めて留錫した古跡である」。
「漢から唐にかけての、燦然たる支那帝國の文化に憧れて、年若き幾千人の日本人たちが海を渡つて來た」。彼らは「當時の不便なる海陸の交通」をもものともせず、「眞理を慕ふ燃ゆるやうな熱情を抱」き、「異郷の風土と戰ひ乍ら刻苦研鑽した」。「それ程の情熱を隣國人の胸に喚び醒ましたものは當年の支那の偉大なる文明であり文化であつた」。
かつて「羅馬の古にもバビロンの昔にも求めることの出來ないほどの大きな文明が、この支那大陸の中に澎湃と渦巻いてとゞろき渡つてゐたのであつた」。であればこそ、現在の惨状を思うにつけ、「それは單純なる榮枯盛衰といふ事ではない」。この地で「畢生の修業を為し遂げた」弘法大師の「感化が千百有餘年の今日、吾々の血管のうちに躍動してゐるといふこと、それらの事實を想い起す時は、自分は今更ながら吾々の先祖の純眞なる精神向上の心に對してしんみりとした、なんとなく頭のさがるやうな情を覺えずにはゐられなかつた」。
だが、しんみりして終わるような鶴見ではない。問題は、「古代支那に對する日本民族の燃ゆるが如き敬慕の情と、近代支那に對する全日本人のいなみ難き輕侮の情とである」。
「敬慕」と「輕侮」――「その二つの對照を、吾々は正直に、露骨に容認したい、それは新しき兩國民の理解の第一歩であるから」だ。「この二つの感覺の衝突が、吾々近代日本人の心の裡に或は潜在意識として、或は明白な感覺として存在して居る」。
考えてみれば「弘法大師が抱いたあの支那文明に對する憧憬」も、「日清戰爭以後の日本人が有つた近代支那に對する侮蔑」も、共に「それは理論でなくして事實である」。日本人は小学校以来、「古き支那が産んだ聖人と賢者と詩人を讃嘆した」。その一方で、「明治の國家主義の�育を受けて、十九世紀末、歐米に磅?した國際競爭熱の洗禮を受けて、力強き國民主義の精神に陶冶さられた。そして眼を轉じて國家主義の色彩希薄なる支那を輕蔑することを學ん」でしまった。
これを要するに、日本人は「古典的支那に對する尊敬と、近代支那に對する輕蔑とは吾々が既に小學校の�室裡に於て感得したのである」。
だが「時世が變つた」というのだ。ヴェルサイユにおける「一九一九年の平和會議が、新しき時代の黎明を世界に宣言し」、「その日から支那の國際的意味が變つて來た」。では、どのように変わったのか。「武力と財力とに於て弱き支那が、或る見えざる新しき力を以て全世界の民衆に迫つて來るやうになつた」のである。だから「日本國民が今一度新しき眼を開いて支那を觀なければならないようになつた」。目の前で進行している隣国の状況に対するに「皮肉な冷笑を唇端に浮かべ」る者もいれば、「燃ゆるが如き希望を滿面に浮かべ」て見つめる者もいる。
だが「新しき力を以て全世界の民衆に迫つて來るやうになつた」隣国の復活・再生の可能性を考える他に、日本人としては「正直に吾々の心の裡に在る二つの支那を驗別しなければならない」。つまり「古典的支那に對する尊敬が現代支那に適用せらるべきや否や」。そして「現代支那に對する輕蔑の心持がかへつて眞實の支那に對する諒解であるか否か」。日本人は、この難題に、いったい、どのように決着をつけるべきか。
「新しき支那は、古代支那が日本人の先祖に與へたやうな力強き崇拝の心持を現代日本人には與へる」わけもなく、弘法大師が「此の國に求めた樣なあの火のやうな情熱を現代の日本人の間に喚び醒ますことが出來る」はずもない。だが、と鶴見の問いは続く。《QED》