――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(19)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1926回】                       一九・七・仲七

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(19)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

「弱き民を憐れむというやうな驕慢な慈善心から出發するところの親支那論は、自尊心強き支那の國民が受入れ」るわけがないと考える鶴見は、「今日の支那が、吾々の中に強き感嘆の情操を刺戟」できないなら、「永き隣人であつたところの日本と支那とは、純眞な意味に於ける友情を持つことは出來ないに違ひない」と断言する。

では、どうすれば「今日の支那が、吾々の中に強き感嘆の情操を刺戟」することが出来るのか。そもそも「吾々の中に強き感嘆の情操を刺戟」するようなモノを「今日の支那」に見出すことが出来るのか。鶴見の旅は続く。

「今から十年前、紐育から船に乘つて、西印度の島々を廻り歩いてゐ」た折りに手にしたフランス女流小説家のイギリス紀行文に、イギリスとドイツは「歐羅巴に於ける男性國であ」り、フランス、スペイン、イタリア、ロシアは「歐洲に於ける女性國」である。フランスで「女性の有する趣味と文化が、(中略)花の如くに咲き榮え」、イギリスにおいて「男性の有する趣味と文化とが、(中略)根強く繁殖して行つた」。互いが相手の国民の「各異なる性格を正直に認めて、その立場から兩方の文明を認めるやうに努力しなければならない」と記されていたことを思い出す。

この考えに興味を持ったが、当時はイギリスとフランスのことだと思い込んでいた。ところが「昨年歐米から日本に歸つて來て」、このフランス女流小説家の言葉を思い出し、「同文同種といふ永い間の標語が、動きなき眞理として餘りに深く日本人の頭に染込んではゐないかといふ感じが自分の腦中に起つて來た」。そんな時、「十七年の久しい間、日本で暮して、日本の文化と生活と趣味とを十分に理解してゐる者である」と名乗った「一人の支那の青年が自分の眼を開いて呉れた」という。以下、その青年の説くところだ。

――「近頃日本人が支那人を非難して、歐米人に親しんで日本人を疎外すると言ふ。そして口を開けば直ぐと、同文同種の國であるから今少しお互いに理解しなければならぬと言ふ」。だが、この説は大いに疑わしい。たとえば生活方式だ。「日本だけは、何れの國とも違つた衣食住の方式を持つてゐる。であるから支那人が日本に來て暮すよりも歐米に行つて暮す方が早くその習慣に馴染み易い」。それは欧米人にしても同じだ。「さういふ生活の方式が與へるところの親しみ易さといふものが、西洋人と支那人との間には在る」。

物の考へ方も似ている。日本人と話していると、「諸君は十分間に一度は大日本帝國と言ふ。それが自分達の耳には異樣な不快な響きを與へる」。だが「歐米人と話してゐる時にはさういふ事はない」。

辛亥革命以来の「支那の動亂を以て日本人は支那を嘲り笑ふ一の理由」とする。だが最近になって考えてみるに、「是は日本文明模倣の結果である」。じつは清朝末期になって、「殊に日清戰爭の敗北と、日露戰爭の當時に於て、支那人は急に眼が醒めた」。両国の間の隆盛と衰退という違いは「日本が夙く歐米の文明を吸収して立派な政府を造つたからである」。

「成程、これだと我々は膝を拍つ」て、潮のような勢いで日本に留学し、「日本人の制度文物を學んで早く支那に實施したいと彼等は焦つた」。隆盛の日本にはあるが衰退の支那にない「憲法を作り、議会を造り、法典を整理し、兵隊を新しく訓練した」。そのうちに辛亥革命が起こり「支那は共和國となつた」。だが改革は行われず、「永き戰亂が支那の全土に漲るやうになつた」。そこで「支那人は迷つた。それは何の爲めであるか」。

迷うまでもない。答は簡単である。「支那が日本を模倣した」ゆえの失敗なのだ。明治維新を真似た辛亥革命も、東京の中央集権に学んで北京に樹立した中央政府も、共に失敗した。「何となれば日本は政治の民であるに反し、支那は經濟の民である」からである。《QED》


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