――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(12)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1918回】                       一九・七・初一

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(12)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

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 「『山西自治』。それが言ひあはしたやうに、凡ての人の唇から洩れた。支那の現状を論ずる人も、支那の未來を論ずる人も、一度は『山西自治』と言」う。そこで「自分は支那研究と言ふ手前からも、どうしても山西省太原府に往つて、その音に高い山西自治運動なるものを見て來なければならない」と、「山西督軍閻錫山」の許を訪れた。

 当時「一度は『山西自治』と言」う人々が、千葉県山武郡源村のみならず明治末年の静岡県賀茂郡稲取村と宮城県名取郡生出村の模範村」に思いを馳せたことはあるだろうか。

 目の前に閻錫山は、「黑い支那服をつけて、支那靴を穿いた、四十少し過ぎと見られる中背の人で色の淺黑い、やゝ小肥りの、二重顎、下ぶくれの顔、黑い八字ひげ、軍人と言ふよりは、學校長といつた風に見える」。

 先ず鶴見は、山西自治という「大事業」を進めるに当たって、行政事務に要する経費は必然的に膨張するだろうが、その場合の経費徴収方法を訊ねた。すると「平素、餘程演説をして、出來あがった音聲にちがひない」「大そう錆のあるいゝ声」で、その場合は「輸出輸入などの税に依るつもりです」。

 この答えに鶴見は失望する。それというのも、「(閻錫山が例示した)釐金税は、支那の經濟構造發達の妨害であつて、山西の如き進んだ政治をする處で、之を財源としやうと言ふことは、頗る自分の腑に落ちなかつたからである」。

 次に「山西省は産業の頗る有望なところと承知しますが、産業發達の結果、起つてく來る勞働者の團體運動即ち勞働組合を御許しになりますか」と労働組合に就いて質したが、要領をえない返事だった。どうも通訳が十分に訳せなかったようだ。

 3番目に産業発達の暁には必要となる電気に関して質問すると、「(山西省に豊富に蓄えられた石炭や水を使って)行く行くは電氣事業を起こすつもりであると簡短に言はれた」のである。

 鶴見が「二日間考へた上で」、「財政問題と、社會問題と、科學との三點について」の質問したのは、「ある米國人が自分に語つて、閻督軍は、志はよい人であるが、知識が乏しい、との話」を聞かされたからである。

 所期の目的は達せられなかったものの、鶴見は閻錫山が「近代的意義に於ける經世家の資格なし、と結論」づけた訳ではない。通訳に問題ありと痛感し、「英語の通譯を介した方がよかつたと、沁々と後悔した」のであった。

 ここで「督軍の得意の問題たる敎育」に話題を転じ、単刀直入に「敎育の思想的中心は何でありますか」と質すと、「それは、做好人有吃飯、と申すことであります」。「それは勞働すれば食事が出來ると、言ふ意味であるといふ」。いわば衣食足りて礼節を知る、である。ヒモジサが諸悪の根源ということではないか。

 去り際に「自分を玄關まで見送つて來られた、質素な誠實な閻督軍の風格」の向こうに、鶴見は北条時頼を思い浮かべたと記す。質素かつ堅実で宗教心に篤く、執権政治の基盤を強化する一方で、御家人や民衆に対して善政を布き、以後は名君の誉高い北条時頼(1227年~63年)である。

 「支那を研究する人は、きつと太原府と南通州とに巡禮しなければなるまい」との“格言”に従って、鶴見は太原府を後に「上海から海路六時間、楊子江に沿」った南通州に向かっている。「閻錫山氏の山西自治が、政府の力による行政事業であるに反し、張謇先生の南通州の仕事は」、個人經營にかゝる經濟發展事業である」からであった。《QED》


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