――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(3)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1909回】                       一九・一・仲三

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(3)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

 その「第二の斷案」というのが、「儒�なんてものは支那では死んで仕舞つた」である。

 後日、胡適は「第二の斷案」を説くために鶴見をホテルに訪ねた。

 胡適が口を開く。「儒�が支那人の思想をそんなに支配したと思ふのが謬りである」。どうやら胡適は「老、荘、禪を理想主義と呼んだのに對し儒�を自然主義」と見做しているようだ。

 そもそも儒教とは何であるのか。儒教の柱である「論語は斷片的な道�と常識だけではないか。しかも論語の中の十六篇は僞文である。孟子、これは勿論孔子には關係ない。して見れば、孔子の�義が天下を感化すると言つた所で、その内容はなんであるか」「孔子の生涯には、そんな深い神秘的な感化を與ふべき何物もない」。まさに一刀両断である。

 そこで鶴見が孔子第一の弟子とされる顔回に対する孔子の感化力を持ち出すと、「顔回?顔回が何をしましたか。顔回が貧乏したと言ふだけで、何の感化と言ふことが出來ますか」。全く以て身も蓋もない。「人も馬もなで斬り」である。そして筆を以て「一、命運(フェータリズム)――知足(コンテント)。/二、果報(カールマ)/三、道家の報應(レトリビユーシヨン)。」と記し、「是れが、支那人を支配した思想である」と説いた。

 胡適の話を聞いた後、鶴見は「只儒�全盛の支那に於て――胡適君の説あるに關せず自分はさふ思ふ――斯の如く大膽に卒直に、儒�――孔子と言ふ權威を否定しやうと言ふ、年若き偶像破壞者の熱情に感動した。一體に、國權、即ち兵力と財力とを以て、一つの哲學や宗�を一般人に強制すると言ふことは、卑怯なやりかたである」。そんな儒教が「自由にして忌憚なき批評の的になる」ようになったのは、やはり「支那の權力階級の綱紀が緩んだお蔭であ」り、それゆえに「支那の動亂は、支那の思想發達上の恩惠である」と考えた。

 次いで訪れたのは、新文化運動の指導者であり後に共産党の創立に大きな役割を果たした陳独秀と共に「反孔�運動の急先鋒であると聞いた」呉虞だった。呉は、「孔�を非とする理由として、次の如く記された。/一、其學説主張不合國體。/二、偏重一楷級人的利�。/三、主張尊卑貴賤上下男女楷級太不平。/四、輕視女子。/五、尊天重喪禮祭禮入於迷信。/六、不合現代生活」と記し、さらに「科學の眞理に純据し、以て迷信を破除す。外國人も亦多く賛成す」と綴っている。この6項目を簡単に言うなら、「統治階級に最便利重寶なる學説であつて專制政治の支柱」ということだ。

 呉との筆談中に、「流暢な日本語で言う三十四五の支那服」がやってきた。陳啓修である。

「東京帝國大學の學生として、よく新渡戸先生の御宅に出這入りしていたのは、早いもので、もう十餘念の昔である」。現在は北京国立大学経済学教授として「多望なる未來を大勢の人に嘱目せられて居る」。「その時に陳君のされた話は、公にすべき性質のものではないと思うから、此處には書かない」。だが彼が「月並な意味に於ける日支親善論者でないことが、自分には大層うれしかつた」という。どうやら当時も「月並な意味に於ける日支親善論者」が圧倒的に多かったわけだ。何時の時代も、軽佻浮薄の徒は掃いて捨てるほどいる。

 かくして鶴見は「日本と支那との、新しき了解の播きなほしは、陳�授や周作人君等の手にある」と結論づけた。

 次に周作人を訪ねる。この人ほどに日本を理解し、生き方、生きる形・姿としての日本文化を存分に堪能した人は見当たりそうにない。だが彼もまた「月並な意味に於ける日支親善論者でないこと」は明らかだ。毛沢東に持ち上げられた兄の魯迅とも、共産党の走狗然と振る舞った弟の周建人とも違い、共産党政権下でも節を枉げることはなかった。《QED》


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