――「我は大清國の民なりと」――遲塚(2)
遲塚麗水『山東遍路』(春陽堂 大正四年)
もう少し遲塚の目に映じた一般庶民の日常生活を追いかけてみたい。
「宗�上の信仰につては、殆ど何者も持つて居ない、死を恐れることは生まれつき知つて居るが、その命の價は極めて安い、死人を取扱ふ道としては廟がある、これは宗�的の意味は殆ど無く只死人を葬る一の形式に過ぎない」。
明治39(1906)年に1ヶ月ほどをかけ奉天(現在の瀋陽)、大連、旅順、営口、山海関、天津、北京を旅した徳富蘇峰も『七十八日遊記』(民友社 明治39年)に「総じて支那にては、流石に四億余の人口ある故にや、人間程廉価のものは此れなく」と呆れ気味に綴っているが、「その命の價は極めて安い」のは、やはり膨大な人口という“特殊事情”に起因するのではないか。人権無視。いや、御幣を恐れずにいうなら、そんなもの最初からなかったのではい。現時点でもそうだが、1億2千万余の日本の人口スケールの11倍以上の14億強の人口を抱える国であることを決して忘れてはならない。
「死骸を火葬にする事は非常に嫌ふ、皆土葬にする、其棺は立派な事はこれ又以外に驚くより外は無い、平常殆ど食ふや食はずの生活をして居る農民でと(おそらくは「も」の誤植ではないか)、死んで入る棺だけは實に立派なものを作つて置く、生きて居る中から、ちやんと用意して居るのである」。
「邊鄙な田舎には何等娯樂の機關の無ければ、遊戯の方法も無い」。では何が楽しみか。じつは年に数回開かれる廟会(縁日)であり、縁日に掛けられる芝居が一般的だが、遲塚は「農民は暇さへあれば、煙草をふかす事と生芋を咬る事が唯一の娯樂」だとしている。
「妻に對する態度は、愛すると云ふよりは寧ろ仕へると云つた方が至當」で、「妻には一番奥の部屋をへて置いて、日が暮れると、勞働に疲れた夫は、小さい妻の便器(壺)を抱へて其閨に入つて行く」。とはいうものの食うや食わずの一般農民が「一番奥の部屋」があるような家を持てるほどの余裕があるわけはないだろうから、この辺りは遲塚の勘違いか。はたまた誤解だと思うのだが。
ドイツ軍を破った後の青島の行政・治安は日本側の青島軍政署が司っているが、戦後混乱期の「いまだ軍政を布かざるの前は、支那人の盗賊横行して無人の家屋に侵入し、盛んに奪掠を擅にした」。そのまま一般人を市内に呼び入れたら「支那の不逞の徒更に多く入り込みて、市の秩序を攪亂するの虞あれば、秩序其緒に就き次第、順次一般に入市せしむる方針を定め、先市内に財産を有するものに限り入市して之を整理せしむる事とした」のであった。
日本にだって「不逞の徒」はいる。だが、なにせ膨大な人口だ。分母が大きいだけ分子に当たる「不逞の徒」は多いはず。さぞや青島軍政署は苦慮したことだろう。
人力車を駆って青島市内観光に出掛ける。「甚だ乘心地好からぬやうに思はれたるが」、予想が外れた。「宛ら安樂椅子に凭りたる」ようだが、「唯だ辮髪を巻ける車夫の首が、眼の前に出頭没頭して行く手の看めを妨ぐることゝと、時に手洟をかみ、又唾を吐いて、飛沫の面を撲つあることゝは仲々に心地惡し」。まあ郷に入ったら郷に従え。我慢、ガマンだ。
某日、「青島に入るの關門」に当たる「臺東鎭に遊ぶ」。雑踏と人いきれの市を歩いた。
「物を賣るに皆秤量を用ゐたり」。包子(肉まんじゅう)でも1つ1つ手に取って少しでも「重さうなものを撰り取るなり」。そこで包子は「實に幾十人の掌の上に載せられたるなり」というから、その「幾十人の掌」の汚れで包子がコーテイング(!?)されていることになる。かくして「余はこれを觀て、支那人は燐寸を買ふにすら、一枝一枝と算へて數多きを撰り取るなりと曾て聽けるは、眞なりと想へるなりき」。《QED》