――「我は大清國の民なりと」――遲塚(1)
遲塚麗水『山東遍路』(春陽堂 大正四年)
内藤が「支那人に代わって支那のために」頭を捻っていた頃、駿河生まれの紀行文家である遲塚麗水(慶應2=1866年~昭和17=1942年)は、青島・台東鎮・曲阜・済南などを巡る旅を楽しんでいた。
先ず青島では、第一次世界大戦における日本軍による攻撃を受けた「悽愴なる新戰塲」を見て歩く。「今日は市の立つ日と見えて、廣塲に雜然として露店を出す」。もちろん「支那人老弱其間に雜沓」している。上陸以来のことだが、この市でも「支那人に散髪せるものを一人も見」ることはない。どうやら「山東は民心尚ほ宗社に傾ける」ようだ。そこで「試みに余の乘れる自動車の運轉手に辮髪を剪らざる」理由を尋ねると、彼は「傲然として臂を揮つて曰く、我は大清國の民なりと」。
遲塚の旅行は中華民国建国から3年が過ぎた大正4(1915)年である。はたして辮髪を蓄えたままの運転手クンは、断固として中華民国という新国家を認めたくなかったのか。それとも革命によって清国が地上から消え去り、新しい国家が生まれたということを知らなかったのか。はたまた政治の動きなんぞに毛ほどの関心もなかったのか。
当時、一旗揚げようと多くの日本人が続々と青島市内を目指しているが、まだ市内に住むわけにはいかない。「僅かなる路銀、輕き腰纏、薄き資本を携へて來りしものも少なからず」。そのなかでも「機敏なる徒輩は荒廢せる支那家屋を借り受けて蕎麥屋を出すあり、宿屋を營むあり、飲食店を開くあり」。なにやら速成の日本人町といったところか。「『あれあれ彼方に日本婦人が往く』と、誰やらが物珍しく號びつゝ指さすを見れば、成程、紫紺の羽織に瓦斯織らしきベンガラ物を衣たる東髪の女、顔を眞白に塗り立てたるが、余等の一行を見て、疾歩して躱れ去るなりき」。もはや多言を要しないだろう。「顔を眞白に塗り立てたる」彼女らこそ、日本から「僅かなる路銀、輕き腰纏、薄き資本を携へて來りしもの」たちの“先兵”であり、海外雄飛のための“先遣部隊”の「からゆきさん」なのだ。
「悽愴なる新戰塲」を歩く。ある集落の「廟の邊に、アンペラ小屋あり、苦力多く集まりて喧囂す」。何事かと覗いて見れば、この村の「賭博公開塲」だった。なんでも日本軍政担当者が「土民の路傍に賭博して移住せる内地人の風俗を害するを見て、令して賭博を嚴禁し、獨り此の關帝廟畔の賭場を設けて之を默許せるなりといふ」。「移住せる内地人の風俗を害する」という理由が何ともオカシイが、「僅かなる路銀、輕き腰纏、薄き資本を携へて來りしもの」がその道に奔るのは止むを得ないことだろう。
総じて「獨逸の租借地であつた山東の一角に住む支那人は、哀れな生活をしてゐた」。「數萬の農民はかつかつ貧しい生活を續けてきた」のだが、「百人に二人位の割合で金持ちといふ者が矢張りある」。それは先祖伝来の土地を広く持っている結果が「産み出した貧富の懸隔に過ぎないから大した事ではない」。
遲塚は一般庶民――もちろん大部分は農民だが――の生活ぶりに目を転じた。
「敎育の程度は極めて低」く、「子供は少し大きくなると、もう勞働の手助けに使はれて、呑氣に遊んで居る暇など殆どない」。「農民は卵すらも食べ」ずに売りに出す。「一軒の家には、普通五六人から十人位も住まつて居る」ものの所有する土地は極めて狭いから、生活はくるしい。「米を食う事は全くな」く、「何でも鹽で味をつけて食ふ」。家をみると「一室に小さい窓を一つづゝあけてあるばかりだから非常に暗い、室内が不潔なのは暗いせいであらうと思はれる」。「醫者は何の村にも一人も居ない、病氣になると只苦しんで死ぬばかりだ、それが習慣になつて居るから、左程にも悲しみを感ぜぬ模樣である」。「無智なだけ藥に對する信仰が厚いので、藥はどんなものでも非常に好く利くさうだ」。《QED》