――「我は大清國の民なりと」――遲塚(3)
遲塚麗水『山東遍路』(春陽堂 大正四年)
やがて青島を辞し済南に向う。その道すがら目にした「狂婦」について綴る。
彼女は「宛轉して麥田の上に在り、垢面蓬髪、身に襤褸を着け、喃々をして獨り語りて或は泣き或は笑ふ、往來の人、顧みるものなし、哀むべし狂婦は終に溝壑の中に死せん」。かくて遲塚は「支那の國民性は絶對の個人主義なり、這の憐むべき生靈を綏撫して、平靜の治下に置くもの、正に我が帝國の使命なるを思ふ也」と。
たしかに「這の憐むべき生靈を綏撫して、平靜の治下に置く」ことを「我が帝國の使命なるを思ふ」ことは自由である。いや、それなりに立派なことであり、同時に当時の我が国における一般的風潮だったかも知れない。だが、第一次大戦前後の創成期の中華民国を囲繞する現実――彼我の人口比、風土や民族性の違い、20世紀初頭の中国に対する欧米列強の思惑と複雑に絡む利害関係――からして、それが至難、いや我が国将来の足枷になることに、どうして当時の人々は思い至らなかったのだろうか。「正に我が帝國の使命なるを思ふ也」とイキガルのもいい加減にすべきだ。常識的に考えてできもしない大言壮語は国を誤ることを、やはり肝に銘じておくべきではなかったか。
途中、曲阜駅から孔子廟を目指す。どうやら道に迷ったらしく、「余等を載せた馬車は、早や青を抽く三寸の麥の上を漫々として行く」なり。つまり稔りを待つ麦畑の上を走ったわけだ。それというのも「支那には正しき道路なし」。だから「皆麥田の上を度り行くなり」。そこで「往來の頻りに繁きところ自から蹊を成す」。自分の麦畑を道路代わりに踏み荒らされたら堪らないので、持ち主は「其處に深き溝を穿ち」て「路を拒ぎ止め」るのである。そこで車馬は別の麦畑の上を「漫々として行く」ことになる。かくて「葛天無懷の民の世は、遠く五千年の昔に在らずして今に在る也」と。5000年の昔も今も変わりないじゃないか、というのだろう。魯迅は人の歩いた後が道になる口にしたが、はて、このことか。
だが、「葛天無懷の民」と侮ってはいけない。急げと御者に命ずると、彼は後ろ手に差し出して「『大人、酒錢』と曰ふなりき」。ダメだと断ると、「鞭を棄てゝ煙草を薫らし、唯馬の歩むに任すなり」。サボタージュだ。かくて「葛天無懷の民と思ひしに、狡猾甚だ憎むべき也」と。ナメンジャねえよ、といったところだろう。
「葛天無懷の民」とナメて掛かると、トンだしっぺ返しを食らうのは必定。「這の憐むべき生靈を綏撫して、平靜の治下に置く」なんぞと、口が裂けても言ってはならなかった。
曲阜の街に入れば、「『日本人來』『日本人來』、街を擧りて來り觀けん」。老若男女が次々に集まって来て遲塚を囲む。乞食は「余の行く手を遮りて兩掌を高く捧げつゝ錢を乞ふ」。そのうちに曰く因縁のありそうな土産物の売り子が集まる。おそらく彼らからすれば、カモがネギを背負って、といったところだろう。これが「葛天無懷の民」の現実なのだ。
聖地・泰山に登る。宿坊の主人は「我を異邦の人と侮り」、バカ高い宿料を吹っ掛けただけでなく、茹卵子も倍の料金を要求して来た。「詐辯し、茶錢、炭錢、貪りて?くことを知らず」。そこで「余は怒りて其の不當を叱詰すれば、主人飽くまで頑囂に、大聲揚げて喚き立つ」。「町の有象無象ども何時しか庭に入り來り」、やんやヤンヤの掛け声を挙げて「主人聲援す」。憤懣やるかたない遲塚は口にした煙草の吸殻を主人の顔に投げつける。すると「主人怒號して余が携へたる行李を奪ひ、金を出さずば還さじ」と息巻く。こと此処に至っては「多勢に無勢、敵すべからず、金をへて僅に此の重圍を脱したり」。情けない。
「葛天無懷の民」に翻弄されながらの旅を終え、「秀麗なる富士の山を仰」ぎ、「泰山は支那の五岳の宗といふといへども、天下復た此の富士に優れる山のあらめやは」と。
「葛天無懷の民」を前にして「我が帝國の使命」は空しいばかり・・・噫嗟!《QED》