――「只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に満たされて居る」――諸橋(1)
諸橋徹次『遊支雜筆』(目黑書店 昭和13年)
諸橋轍次(1883年~1982年)といえば、1925年から72年まで37年の歳月をかけて『大漢和辞典』(全15巻)を完成させたことで知られる漢学者である。
『遊支雜筆』の出版は盧溝橋事件勃発の翌年だが、冒頭の「小序」によれば「今皇軍が朝な夕な君國の爲に勇戰奮鬪して居らるるところ」には、大正7(午)年、9(申)年、10(酉)年の3回にわたって訪れている。かつて見聞した「遺跡が、今度の事變によつて如何樣に轉變するかは豫斷を許さぬ」。だが変化したとして「此のささやかな記録でも、後日訪古の資料となることもあらう」と、出版社から声を掛けられたこともあって、「敢えて二十年前の殘夢を茲に公にすることにした譯である」そうな。
世界最初の本格的漢和辞典作りに37年も取り組み、しかも完成寸前を戦災で焼かれながら再度取り組み、殆んど失明寸前まで目を酷使しながら完成させたという謹厳実直を絵にかいたような漢学者であるだけに、これまでに見た政治家や経済人などとは違った視点からの記述がみられる。
3回の旅行記を合わせたものだが、じつは何年に旅行した時のものなのか必ずしもハッキリしない。そこで敢えて年代は記さないことにし、大正7(1918)年、大正9(1920)年、大正10(1921)年の4年間に跨る旅行記として見ることにした。
ここで当時がどんな時代であったかを知っておくのも、旅行記を読み進むうえで参考になろうかと思うので、簡単に記しておく。
先ず日本だが、シベリア出兵、米価暴騰をキッカケとして富山から関西各都市に米よこせ運動が拡散、第1次世界大戦休戦条約が成立し、西園寺と牧野を講和使節としてパリに派遣(大正7年)。パリにおける講和条約調印、シベリア撤兵開始、普通選挙論台頭(大正8年)、「尼港事件」発生を受け同地占領、経済恐慌発生(大正9年)、ワシントン軍縮会議、安田善次郎・原敬暗殺(大正10年)。一方の中国は激動が続いた時代だが、後への影響を考えるとロシア革命の影響を受け雑誌『新青年』を軸にして新文化運動が活発化(1918年)、五・四運動(1919年)、陳独秀による社会主義青年団組織(1920年)、中国共産党の成立、孫文大総統就任(広東政府成立)と孫文・マーリン会談(1921年)――まさに物情騒然たる時代の中で諸橋は大陸を旅行したということになる。
「一度支那の地に遊んだ人は屹度同じ感じに打たれて歸ります」と、印象的な書き出しだ。「傾いた古塔や破れた城壁に充たされた支那の各地を旅行しますと、萬人が萬人、皆破國(亡國ではありません)の俤といふ淋しい印象を抱くのであります」。田舎、「或は過去の都跡といふ樣なところへでも參りますと、其處には何一つ生き生きした氣分はありません」。まさに「一圓の光景は只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に滿たされて居るのです」というから、諸橋が目にした光景は陰々滅々としたものだったらしい。
水の都と讃えられる蘇州で孔子廟を訪ねると、「驚くことには牀板一圓は鳥の糞ではありませんか。梁の上、額の裏、無數の蝙蝠が飛びあるいて、(中略)どう見てもお化け屋敷としか思はれぬのであります」。聖人中の聖人を祀る孔子廟の無残な姿が凡てを表している。
歴史の長い名刹は「殆んど豫想の外に淋しい感じが湧いてゐます」。「其處に僧が居ります。僧といつても乞食より汚い」。かくして「異國の旅人には只何となく、『こゝは破國である。こゝに來たものは破國の淋しい俤を偲ばなければならぬ』といふ囁きが聞えるやうな氣がするのであります」。
それにしても旅行の初っ端から諸橋が目にした光景は、無残極まりない。幕末以来の旅行記で亡国といった表現は数多く目にしたが、「破國」の2文字は初めてだろう。《QED》