――「只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に満たされて居る」――諸橋(13)
諸橋徹次『遊支雜筆』(目黑書店 昭和13年)
「支那歷史三千年を通じて考へてみますと、常に治平の時代は少くして戰亂の時代が多いのである」。そこで「戰亂に對して耐え忍ぶといふ幅の廣さ」が発揮される。「彼等は如何なる戰火の中に叩かれても、尚且つ自ら自己生存の道を求め得るのであ」り、これこそが「洵に支那民族の不死身の性格として恐るべき所であるやうに思はれる」のである。
ここで諸橋は「征服せられた國民が征服した國民を更に征服し返す」方法を記した古典の『六韜三略』を持ち出し、その柱となる方法は「己を征服したものに、驕りの心を起こさしむることが一つ。或は征服したものに淫藥を與へて其の志を倦ましむることが一つ。之には婦人を用ひ、或は酒を用ひ、或は貨を用ひます。或は更に征服した國家の重臣の間を分離せしめ、お互に相嫉ましむることが一つ」である。
この「文伐」と呼ぶ奸計について漢代の賈誼も「五餌」と表現し、「一は美しい着物、美しい乘物を與へる。二は御馳走、珍味を與へる、三は音樂、婦人を與へる。四は高い家、美しい建築を與へるというふうなこと」と記している。「文伐」といい「五餌」といい、結局は「常に支那に於ては夷に征服せられた場合の報復策として用ひられ試みられものでありませう」。これが文化の低い異民族に征服された時、征服せられながら征服するという方法ということになる。支配された風を装いながら支配する、ともいうらしい。
「今後支那よりも更に文化の高いものが支那に臨んだと假定した時、果して此の方法が成功するかどうか。よもやそんな兒供騙しの政策に載せられる」ことはないだろう。だが彼らは不死身である。だから「此の國が直ちに民族的に衰滅の一路を辿るものであるとはどうしても速斷し得ない」。「支那は一方に於ては常に破れた國の姿を取つては居る」ものの、その一方で「又常に興り掛つて居る」。これが「實は支那の実相」である。
加えて「支那民族には世界に類を見ない人口繁殖力を有つて居」る。先に挙げた「不死身の生存力」に「此の繁殖力」が加わっているわけだから、やはり鬼に金棒。この先、どのような動きを見せるのか「なかなか私などの僅の智識では判斷出來」ない。
以上、「目に着き易い惡い方面」を指摘したが、彼らは「禮儀と謙讓とか寛容とか宏度とか、幾多美點を持つた多くの人々も居る」わけだから、「要するに今後支那問題を論ずる人は、支那は決して單純には解し得ない大國であるといふことだけは、篤と確認する必要があらう」と、諸橋はクギを指す。
それにしても「文伐」やら「五餌」といった“手練手管”と「禮儀と謙讓とか寛容とか宏度とか」の「幾多美點」とが、どこでどう結びつくのか。なんとも扱いづらい民族であることだけは確かだ。少なくとも、オトモダチにだけはなりたくはない。
次いで諸橋は上海やら北京などの街を歩きながら観察を続ける。
先ずは上海に対しては、「繁華は豫想の外だが、豫想の外の繁華は果して支那の慶事か」と疑問を呈す。「開港のはじめ、外國租界が立つた時、眞先かけて驅けつけたのは、商人より何より、蘇州、杭州の金持連であったといふ」。それというのも、地元にいては財産も命も危険だからだ。租界で大商店を「張つてゐる支那の人は、多くは自國の保障を危んで外國の保護にたよらうとする」。また「官憲の眼をしのぶ學者」や亡命希望革命家などの「名士の隱れ場として一段の繁昌を加へてゐる」。
こう見てくると「日に面目を新にする上海の繁榮も、背後に支那帝國の無秩序と混亂とをかざしてゐると思へば、繁榮は慶事」などではなく、「むしろ悲しむ可き現象であるかも知れない」。大きな競馬場を中心に、街の佇まいは射幸心を刺激するばかり。「要するに見るもの聞くもの、植民地の常弊とは言ひながら餘りにも射利に向いてゐる」のだ。《QED》