――「只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に満たされて居る」――諸橋(8)
諸橋徹次『遊支雜筆』(目黑書店 昭和13年)
もう少し、新文化運動に対する諸橋の考えを追ってみたい。
諸橋は、これまでみてきた「新文化運動を社會的に實現する方法」とは別に、「實はもう一つの運動がある」と指摘する。それを「消極的の運動」とし、「新文化運動の精神に反對するものを破壞すると云ふ運動であ」る。
「其の一は、過去の敎――孔子の敎に對する所の反對で」、「其の二は、支那の擬制、就中家族を主とした擬制の破壞であ」る。
先ず「其の一」だが、「支那の敎」は断固として「孔子の敎」であるという考えに反対するもので、その中心は後に共産党創立者の1人で初代総書記の陳独秀など。孔子批判は陳独秀が初めていうわけではなく、代表例としては明代の李卓吾――吉田松陰を大いに刺激した『焚書』を著す――が挙げられるが、彼らは歴史的・文化的には異端者として扱われている。如何に極端な振る舞いであれ、それは個人の範囲に止まっていた。だが諸橋が「彼地で遭遇した事は、少なくとも個人的ではない」。団体、それも「或る一部分の大きな團體の勢力」による動きだった。
たとえば1920年の「十月にありました陝西省の孔敎問題」と「十一月浙江省の全國敎育會に起こつた讀經の問題であります」。前者は孔子の誕生日に陝西女子師範学校の新文化運動論者の教頭が、偶像崇拝は無意味で孔子は時代に合わないから恒例の孔廟参拝を中止した。また陝西省で多くの学校で教員が反孔子ストライキを敢行し、これに同調した学生を当局が「炮烙の刑に處したと云ふ」。
後者は全国教育会議における浙江省による「毎週日曜日に學生に經學の本を讀ませよう」との提案に対し、同省の学生が会場に押しかけて「(伝統的な学問である)經學は奴隷敎育である、復辟敎育である、君臣敎育である。之を復活するは新文化運動の精神に反する」と気勢を挙げたというのだ。
こういった「從來の歷史も何も無視して、只五四以來風氣が一變したと信ずる新文化の諸君の態度は」程なく「取消」ということになった。新文化運動に対し諸橋は、「兎に角、如何に新文化と云ふものと過去の德敎と云ふものが衝突して居るかと云ふ一面が是で分かるかと思ひます」と。
「新文化の消極運動の他の一つは、新文化運動の中核」であり、それは「過去の擬制、家族を中心として居る擬制に對する猛烈な反對」である。「支那は御承知の通りに世界一の家族國」であり、美点もあれば「又幾多の缺點も確かにあ」る。「家族問題の中心と申せば必然的に婦人の問題が關係」し、婦人解放・男女同権に突き当たり、勢い現実離れした議論・運動が展開されてしまう。その中には「不眞面目な部分もありますが」、「家族を中心とした擬制に對する反對、即ち家族の問題」に対しては「兎に角眞劍」ではある。
かくして諸橋は新文化運動を、「新文化運動の中核の問題は個人の解放、人權の擁護、人格の尊重――一言で申せば個人の解放を絶叫するのであり」、そのことが「英米の文化が新文化運動に歡迎せられる最大の原因であります」と総括する。
遠い昔を振り返るまでもなく、辛亥革命から続く社会の混乱を見れば「德敎、政治、一として固定する所がない中に、獨り完全に固定して昔から今に大した變化のないのは家族を中心とした擬制、隨つて其の擬制によつて維持さられてゐる家族制度の強さ」である。ところが「新文化運動の鋭鋒は正にこの一番健全である一番固定的である家族制に向つて突貫して居る」。その結果は「自分の矛を以て自分の盾を破る」、つまりは「支那社會を崩壞して了」う危険性を孕んでいる――これが新文化運動に対する諸橋の見解だった。《QED》