――「只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に満たされて居る」――諸橋(4)
諸橋徹次『遊支雜筆』(目黑書店 昭和13年)
何から何までが両極端、ということは中庸がない。中庸のなさは色彩にも。
「支那の色彩は多く濃厚であります」。それというのも「半年經つても曇ることのない大空や、幾日汽車に乘つても山を見ない平原」など、極めて「單調な支那の風土」であるゆえに、やはり「極めて鮮かな色彩が一つの變化を添へて、言うに曰はれぬ愉快さを感ずる」ことになる。とにもかくにも「現今の支那の人は賞罰に就ても情感に就ても」、「其の強い刺激を受けもし與へもして、茲に自分の滿足を求めて居ります」。
かくして「善事に對して強烈な刺激を與へる支那の人は、惡事に對しては更に強烈な刺激を課さずには居りません」。
小説の類にしても、「優雅とか細緻とかいふ情操を養ふものが存外少くて、露骨な肉欲的なものが多いように思はれます」。なかには「日本に於ては當然發賣禁止くらゐはあるだらうと思はれるものもあります」。
総じて言えることは、「強度の刺激を要するといふことは、其の反面に各部の神經が或程度まで鈍つて居るといふことを立證するものではありますまいか」。どうやら凡てのことに「強度の刺激の存する半面には、確かに又破れたる國の俤を認むることが出來ると思ふのであります」。
諸橋は孟子や朱子の言葉を引用しながら目先の利益、つまり「小惠になつく」ことの愚かさを説いた後、「私の觀察するところ」に基づくならば、「今の支那の人は可なり小惠によつて働いて居つて、大切な大局大利はみすみす之を逸しているのではないか」と考えた。
たとえば第1次世界大戦前、ドイツは優秀な人材に「本國政府から或は本國の商店から、多大の俸給を給與」したうえで、彼らを「無給同樣、薄給の姿で支那商店の雇員」に送り込む。「支那の商店では大喜び」。なんせ安い給料でドイツの優秀な人材が雇えるわけだから。そこで我先に雇い入れ、枢要な仕事を任す。すると「獅子身中の虫はドンドン支那商業の急處を捕まへて、之を獨逸に通告する」。後の結果は、推して知るべし。
なんとまあドイツ人は頭がイイというのか。それともセコイというのか。この点が「一衣帯水」「同文同種」「子々孫々までに友好」など愚にもつかないオ題目に幻惑されたままの日本人とは違う。徹底して富を引っ剥がすという精神が今にも通じているならば、メルケル政権の一貫する親中姿勢にはウラがありそうだ。騙された風を装って騙せ、である。
ともかくも目先の利益に「目を眩まされて國力と國權とを奪はるゝとしたならば、茲にもまた彼國の悲むべき破國の俤が浮んで居るのではありますまいか」。
日本にいては「支那にはなかなか國家思想並に自尊心が漲つていると思」っていたが、現地で「旅行を續けて色々の見聞をしていく中に」、「寧ろ反對の現象、即ち支那の人は自らを屈し平氣でゐる國民であるといふことが多分に頭に殘」るようになった。やはり「一事が萬事、支那の自國に對する自尊心の乏しい事」は明白だ。
かくて「その自尊心の缺乏を透して見らるる破國の俤は、遂に蔽ふことが出來ないのであります」。
「国が破れかかつて居るとせば、其の下に生存する國民は先づ何等かの工夫をして自己の安全を求めなければなりません」。自衛とは積極的なものであり、ウソは消極的な自己防衛の方法だ。北京の国立中学校を参観した際に先生が答えるには、教育上で最も難しいのが「生徒の虛言を直すこと」「全校生徒の五分の一は噓を言ふ」とのことだったという。ならば残りの5分の4はウソを言わないのか。かりに「五分の一」という割合を現在の14億余の人口に当てはめると2億8千万人・・・日本に人口の2倍強!やはり驚異的だ。《QED》