――「只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に満たされて居る」――諸橋(6)諸橋徹次『遊支雜筆』(目�書店 昭和13年)

【知道中国 1833回】                      一八・十二・念六

――「只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に満たされて居る」――諸橋(6)

諸橋徹次『遊支雜筆』(目�書店 昭和13年)

以上は大正7(1918)年9月に脱稿しているが、さすがに諸橋も「此の一篇は今から見て(中略)認識不足と思はれる部分も無いではありませんが、初手の印象記として殘して置きます」と断りを入れている。

ここで諸橋が「今から見て」という「今」は『遊支雜筆』を出版した昭和13年、つまり盧溝橋事件の翌年であり、戦線は大陸全体に拡大していた年であることを注記しておく。

これまで「支那の破れた姿を遠慮なく書いて見」て、「ことに國民的の自尊心の足らない點については遺憾にも思ひ憤慨をさへ覚へた」諸橋だが、次に「新しい姿」を綴った。

「支那の新文化運動」についての外国の影響からいえば、「それは申すまでもなく日本が割合に早い」。「ところがこゝ十數年、亞米利加、英吉利の文化は非常な勢で入り込みました。餘程遲れては居ますが、最近また佛蘭西も其の方面に中々盛に活動して居ります」。そこで「此等外來文化の中、どの系統のものが尤も多く今の新文化運動に影響して居るか」。「それに就いては殘念ながら、英米の方の勢力が日本のそれよりも多く入つて居る樣に思はれるのであります」。先行した日本が、やがて欧米に追い抜かれたことになる。

「一つは文化を輸入する手段方法に就いて日本の方が甚だ拙い」。「二つには世界の風潮の影響を受けて居る」。「三つには日本の世界に於ける地位――文化上の地位と云ふやうなものが、支那の人に就いて低いと考えられて居る」――以上の3つが、先行していた日本が英米に遅れを取った要因だが、このうちの二と三とが「實は支那の人が日本を嫌ふ口實」であり、「本當の支那の人の多く感じて居る實感は、第一から得ている」。そして「其の實感を説明する爲に、第二第三を用ひて居るのではないか」。こう諸橋は感じたという。

たとえば病院。日本は北京で同仁病院を経営しているが西洋式の建物で、規模も小さい。これに対しアメリカの提供するロックフェラー病院は規模が大きいだけではなく、建築様式は「全然支那式」である。北京で経営されている日米2つの病院の姿から、「我々は常に日本及び英米の支那に對する文化政策の形が其の儘現れて居るような感がする」。

では、そこがどう違うのか。

「如何にも日本の人は支那の習俗に親まない、過去の文化を認めてやらない、或は支那の文化を認めてやらない」。これに対し英米は「支那の人々と化してやつて居る。其處が亞米利加の病院が支那風に出來て、日本の病院が西洋風に出來て居るのと同じ形」だ。病院の前を通る人からすれば、同仁病院からは「如何にも日本は貧弱だ」と感じ、反対にロックフェラー病院を「如何にも富裕だ」と思う。「其の感が實際」に現れるのである。

「過去十數年前に日本人の�習が多數支那に行」ったが、「其の大半は失敗して歸つて居る」。どうやら「金錢上の問題が澤山ある」らしい。「僅かなものを與へて僅かな利益を取ると云ふことが過去の日本の或る種の人の考へでありました」。これとは反対に、西洋は「隨分大袈裟なものをやつて又大袈裟な者を取る」。ロックフェラーが「大きな病院を建つて、更に是から大きな利�を取らうと云ふのと同樣であり」、かくして「今の新しい文化運動の人々の頭には、日本は厭だとうふ樣な印象を與へ」てしまった。

また日本嫌いを「世界の帝國は段々崩壊する」という「世界の風潮の影響」から説明する声もある。10月革命でロシア帝国は滅び、辛亥革命で清帝国は崩壊した。だから「將來の世界には帝國は成立しない」。にもかかわらず「日本の�育と云ふものは、帝國といふものを建てるに都合の好い�育をやつて居る」。だから、そういった内容の教育を学んだとしても「支那の�育には助けにはならぬ。故に日本文化は學ぶに足らぬ」というリクツだ。

何とも身勝手が過ぎるリクツではあるが、もう少し諸橋の解説に耳を傾けたい。《QED》


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