――「劣等な民族が自滅して行くのは是非もないこつたよ」東京高商(13)
東京高等商業學校東亞倶樂部『中華三千哩』(大阪屋號書店 大正9年)
若者は排日の心情の淵源を考える。
日清戦争は已むをえぬことではあったが、「兩國親善の爲めには何れほどの邪魔になつたか知れぬ」。それというのも「戰後支那に於ては復讐の爲め敵慨心喚起に何程努力したか知れぬ」。これに対し勝利した日本では「戰捷を記念しそれ等に備ふるの方策は幼い時から支那人蔑視の觀念を腦底に印してしまつた」。つまり敗者は勝者への復仇を誓い、勝者は敗者を軽んじ続けた。
その後、両国の発展振りは余りにも違い過ぎた。それゆえに「日本人が彼等を馬鹿にするのも無理はない」。先進国の日本を学ぼうと「支那の留學生が澤山日本に來る」。バカにされる「不快を忍んで規定の年限だけ勉強するのだらう。日本人と取引する支那人もたゞ物質的打算の爲め他に一切を我慢するだらう」。だが、次のようには考えられないだろうか。「我々は永遠の國家なる立場に着眼して、もう一廻り度量を大きくして彼等を完全に抱擁したいものだ、抱擁できないまでも彼等のいやがる事はやめてやりたい」。つまり少なくともバカにすることは止めようということだろう。
じつは日本及び日本人に対し、「斯くの如くして一般支那人の胸に根深い怨みがつまれた」ものの、「弱國の悲哀は、この鬱憤を晴らすべき機會」を持たなかった。そこに起こったのが「山東問題」――1915年の大隈内閣による「二十一カ条要求」――であり、これを「導火線として果然學生の排日運動が開始された」のである。しかも、あろうことか、その中核が日本への留学生だったのだ。これは、何故か。
「一度米國へ留學したる支那學生が非情の感謝と思慕とを形見として歸るに同じ支那學生が我國に留學するや憤悶と反感を抱いて故國に歸ると云ふのは一體何したことだらう」。
日本滞在中、「下宿や學校で甚だ冷遇」され、「路上の子供にまで嘲笑される」。これには、「如何に支那人とは云へ(中略)無神經、無感覚で居れやう筈がない」。彼ら留学生は「やがて支那共和國の各方面に於て首腦の斑に列すべき有用の材」である。たしかに「眠れる大國と人は云ふ、併し現在の支那は昔の支那ではない」。「歐米の新空氣を呼吸し、今や自由の鐘に覺醒の響きを撞き送る」のが現在の学生だ。彼らの「支那人民に對する影響は吾人想像の外にある」。「僅か一人の大道演説はよく數百千人の無學の同胞をして亂暴狼藉を働かしむ」のである。
かくして排日は慢性化するばかりか、「今や政爭の具に供され野心家の餌に使はれるやうになつ」てしまった。「排日を稱する學生はやがて支那の政府實業を繼承する」。「同時に年々殖えゆく幾千萬の學生」が排日感情を抱くことになれば、その結果は明らかだ。排日運動で我が国が被る被害が多大であることは否定のしようがない。「今以て全然取引休止の状態なのが澤山ある」。たとえば運動勃発以前は船腹不足であった海運業界など、取引は「今は一轉して僅に其四分の一」といった窮状である。
ヴェルサイユにおける講和会議が日本の要求を認める方向で進むや、学生らは中国(中華民国)から参加した「講和委員の應援を兼て親日黨排除の烽火を揚げ、先づ國賊を排除せよ、と絶叫し」、政府部内の親日派閣僚の自宅を襲撃した。「然して其目的を達するや餘勢を驅つて排日の聲を揚げた」。だが過去の失敗から直接日本人の生命財産に手を付けるのではなく、「日貨排斥を叫ぶやうになつた」。外交問題にまで発展しないよう彼らの行動は自己規制され極端に奔ることはないなどという意見もあるが、日貨排斥は「可愛想な弱者の呪ひの叫びだと思ふ」。
当時の日本の若者は日貨排斥の背後に「可愛想な弱者の呪ひの叫び」を聞いた。《QED》