――「劣等な民族が自滅して行くのは是非もないこつたよ」東京高商(2)
東京高等商業學校東亞倶樂部『中華三千哩』(大阪屋號書店 大正9年)
若者への訴えは続く。
「歐米某國の惡辣煽動教唆」によって日中両国の間には「種々の猜疑」が生じ、かくして「兩國民の結束一致を解弛し、所謂啓釁其虛の乘し鷸蚌相爭輙ち漁夫の利を占めんとするものあり、豈警戒せざるべけんや。況や列國大戰の瘡痍は彼等の虎視耽々東亞窺伺に由て寧ろ快癒の期を速催し、捲土重來の機會を切迫せしめつゝあるに於ておや」。
なにやら難しい漢字が次々に現れ些か面食らうが、はたして当時の東京高等商業學校及び同レベルの学生たちは、書き連ねてある難解な漢字を理解できたのだろうか。かりに理解できたとするなら、当時の学生の知的レベルの高さに頭を下げざるを得ない。だが、この手の難解な漢字を並べて文章を綴り、自らの“漢学素養”を誇って一人悦に入っていただけで、さほどの実質的効果があったともおもえない。
要するに第1次世界大戦も終わり、「歐米某國」は再びアジア侵略に転じつつある。ここで「歐米某國の惡辣煽動教唆」に惑わされることなく「(日中)兩國民の結束一致」を促す必要があり、“前途有為な諸君は、その偉大なる任務に邁進せよ”というのだろう。
もう少し、難しい漢字が羅列された勇ましい文章を続けてみると、
「歐米に對する東亞民族の覺悟は飽までも正義の下に其團結力を強鞏し、權謀術數を排し誠實相交り公平事を共にし、一點の野心なく又絲毫も輕侮の念なく、常に虛心坦懷互讓互敬互益主義を遵守するにあり」と。まだまだ続くが、この辺りで「以下略」としておく。
この「駐支所感」と題された文章の書き手は、半世紀ほどにわたって中国に滞在した東京高等商業学校卒業生らしい。ともあれ、こういう自己陶酔臭紛々たる文章を“大人の浅知恵”と評したいが、その後の両国の関係――もちろん、それを巡って展開された「歐米某國の惡辣煽動教唆」も含め――を辿ってみるなら、「兩國民の結束一致」などは“寝言・戯言”の類に過ぎなかったことが判るだろう。
この辺で大人の“檄文”を切り上げ、いよいよ若者の声に耳を傾けたい。
東京高等商業学校東亜倶楽部では、「日頃東亞の研究に志す者が相集つて互いに意見を交換したり先輩の講演を聞いたりしてゐる」。長年の念願が叶って「一行三十名が四旬に渉つて支那を南から北へ旅行した」。この『中華三千哩』は「その紀行文であつて支那が我々日本青年の目に如何に映じたかを語」ったものである。
「支那の産業界を見て余の得た印象は支那の産業界は支那人自身の支配する所と外國人の支配する所との二つに分れてゐ」て、前者は「全く手工業時代の小商工業のみ」であり、「近世的な大商工業は殆んど外國人が支配してゐる」。
「支那人の個性は世界に比類のない程強堅である代りに協力する性質は極めて少ない」。「此の性質は彼國が數千年來保持して來た家族制度によるものである」。この家族制度ゆえに「數人が集まると個人商店を經營するのには非常に適當」だが、「多人數の協力の精神に基いて成立し發達した」「近世の大商工業」には馴染まない。「支那人は他の家族員と協力出來ない以上大會社を組織することが出來ず」、現状のように「近世的な大商工業は殆んど外國人が支配」することになる。だから「近世的な大商工業」を興し「支那が國際間に於て名實共に獨立し得る」ことを「希ふて己まぬ」と共に、我々は「能ふ限りの援助を與ふべきだ」。
「歐米列國は成る可く支那が渾沌たる状態にある間に利權」の獲得を狙う。だが日本は「支那が成る可く早く完全に獨立して東洋が眞に白人の手から解放せらるゝことを望」むから、「日支兩國民は互に之を自覺し正義公平の觀念に基いて親善の實を擧げ」よ。《QED》