――「劣等な民族が自滅して行くのは是非もないこつたよ」東京高商(4)東京高等商業學校東亞倶樂部『中華三千哩』(大阪屋號書店 大正9年)

【知道中国 1864回】                       一九・二・念六

――「劣等な民族が自滅して行くのは是非もないこつたよ」東京高商(4)

東京高等商業學校東亞倶樂部『中華三千哩』(大阪屋號書店 大正9年)

  若者の率直な思いは続く。

 「政治家や實業家は恕す可しと雖も、考のあると云はれる學者までが浮れて日支親善なぞと眞面目くさつてるのは言語同斷だ」。

 「上海も愈々お別れである。上海よ、東を慕ふて來た西人共が夢幻の衣を脱いて金儲けを始めたやうな上海、コスモポリタンな、よい事にまれ、わるい事にまれ何ものをも備へざるなき上海、自分ばお前が好きだ」。

 だが、その上海も排日に揺れている。そこで「上海ではそこは排日で危險だとの注意で行く事が出來なかつた」のである。

 「西人共が夢幻の衣を脱いて金儲けを始めたやうな上海」の租界に8カ国の領事が滞在し、日本人は2万7千人ほどが住んでいた。英米人主体の欧米人は、ほぼ同数。租界は参事会員による自治制度で運営されているが、参事会員を選ぶためには一定以上の資産を持たなければならない。「斯うなると日本人は數こそ多いが資格者は僅少九名の會員中英六名、日は僅に一名を保有するのみ」。そこで租界における日本人の権利・安全などは甚だ心許ない。

 「さら排日暴動だ? と云つても支那の軍隊や警察力は實際あてにならない。自衞の外はない。かうして義勇兵などの御厄介になるのは日本が一番多い癖に志願者は一人もいないさうな。仕方がないから各會商社で順次交代に出てゆくのだと云ふ。こんな風だから排日も叫ばれるんだと思つた」。

 若者の言う「こんな風」を、その後の日本人は克服しえたのだろうか。いや、それは過去のことではなく、おそらく現在にも通じるように思うのだが。

 上海の街を走る電車には頭等(一等)と三等しかなく、「二等がないのが一寸變だ、要するに一般支那人はあまりに不潔であるところから、支那人の乘る車と他人の乘るところを區別したんだらう」。「實際あまりいひ度くないが、支那人は不潔で衞生思想がないからそんな侮辱的な設備をされても仕方がない」。「蓋し多數の支那乘客は無學だからこんなことでもさねばわからんのだらう」。

 上海には「立派な公園がいくつあつても、しかも支那國土の中の上海にあつて『支那人入るべからず』といふ立札を見ねばならんのは又どうした事だらう」。「支那人入るべからずの立札は明に差別」だが、「實際支那に遊んだものは當然だと感ずるだらう、もしこれを許せば、道�も公共心も衞生思想も低級な支那人の晝寝や賭博の場所に變じてしまうのは明らかな事だ」。

 ここで若者は一歩進めて、「けれども僕は今不文化の彼等を諸子に紹介せんとする意志は毫もない。歐米人が、日本人と支那人とどれだけの徑庭にあり、どれだけの懸絶ありと見てゐるかを、日本人として諸子とともに三省したいのである」と、自省気味に考える。

 若者らが上海に遊んだのは大正8(1919)年の夏。この年の1月にパリで第一次世界大戦の講和会議が開催され、6月28日にヴェルサイユ講和条約が調印されている。講和会議において日本代表が世界で初めて人種差別撤廃を主張したが、あえなく否決された。ちなみに講和会議の内容に不満を抱く中国の若者たちは、この年の5月4日、北京で大規模な反日運動(五・四運動)を起こした。百年前である。今年が五・四運動百周年・・・。

 かくて若者は「日本の提出にかかる人種差別撤廢案が通らなんだとて、(講和会議出席の)委員を責めたり、認めてくれぬとて他を恨んだりする前に、靜かに胸に問ふべき事が澤山ありはせぬか」と。確かに「靜かに胸に問ふべき事が澤山あ」る。昔も今も。《QED》


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