――「劣等な民族が自滅して行くのは是非もないこつたよ」東京高商(1)
東京高等商業學校東亞倶樂部『中華三千哩』(大阪屋號書店 大正9年)
東京高等商業学校(一橋大学の前身)で「日頃東亞の研究に志す者が相集つて互に意見を交換したり先輩の講演を聞いたりしてゐる我東亞倶樂部々員」の長年の悲願がかなったのが大正8(1919)年の夏。「一行三十名が四旬に渉つて支那を南から北へ旅行した」。「本書は即ちその紀行文であつて支那が我々日本青年の目に如何に映じたかを語」つたものだ。
東亜倶楽部による旅行は、時期的は河東碧梧桐(1843回~53回)のほぼ1年後であり、大町桂月(1854回~59回)と同じ時期。であればこそ、東亜倶楽部の若者と河東や大町ら大人との隣国事情に対する考えの違いを知ることができるだろう。大人と若者という世代間の考えの違い。同じく隣国に向き合いながら、若者の考えに時代環境の違いがどのように反映されているのか。興味深い点から読み進んでみたいと思う。
これまで若者の紀行文としては『滿韓修學旅行記念録』(1599回~1608回)と『大陸修學旅行記』(1712回~17回)を読んでいるから、この2冊と『中華三千哩』を読み較べれば、明治末年と大正初年、それに大正8年――清朝最末期、辛亥革命直後、さらなる混乱期――において、日本の若者が隣国をどう捉え、どう対処しようとしていたのか。
冒頭に寄せられた東亜倶楽部に関係する東京高等商業学校の教授や先輩からの「序」を読むことで、当時の大人の隣国に対する考え方と、若者に寄せる彼らの“熱い期待感”が想像できるように思うので、そこら辺りから当たってみたい。
「之(『中華三千哩』の草稿)を一讀するに、支那の民情を探り、風物を描き、史蹟を訪ね、大陸的氣分を稱する處、その觀察にその行文に、概觀的なるにもせよ、支那の實情を髣髴たらしめ、且學生的氣分の橫溢して」いる。「刻下、列強の耳目再び東亞の天地に集注せられ、支那問題の朝野に喧しき時に當つて、此書が一般人士殊に青年に稗益する處蓋し鮮少ではあるまい」(法學博士 佐野善作)
「今回の戰爭で養はれた我實業上の勢力が漸次其根を張つて來たことで第一が貿易次が海運金融紡績等の順序で發展して居る」。「地方別にすると何と云ふても滿洲方面が第一で殆ど内地の感があり次で青島上海天津漢口などの順で列強を壓して來て居る」。「歐米方面からも將來豫想した程の資本が入つて來る模樣もないので今後我が實業界の充實と共に支那内地に於ける産業の調査及事業の計畫が益盛んに我が實業家を中心して企てられる」。
「次ぎに拝日問題で注意すべき一事は」、「歐米の商品を扱つて居るものが故意にやる外は支那で相當名のある實業家や多數商人は一般に日貨排斥の意志を眞から持つては居ないので唯學生の危害を惧れるのと民衆への氣兼から形式的にやつて居る仕事である云ふ點である」。
だが内陸部はともかく「上海其他開港地の隆々たる發展」は凄まじく、「その發展は大部分粗界(租界の誤りだろう)に於ける外國人の力に因るのであるが支那人の覺醒も決して見遁かすことは出來ない」(引率者の奈佐忠行教授)
日本は混乱の隣国に「殆ど献身的に過去の半世を消過」し、やっと「天産物の潤澤と交通の至便とを覺知し得」た時点で、「漸く歐米列強の鷹瞵虎視常に中國を離去せざるの理由を闡明し、倐ち豁然會得する所あり」。「由來東亞は東亞の天地」であり、「之を拓殖するは東洋人の天職」だから、「列強の脅威干渉を許さず」。「同文同種の天縁あ」る両国は「具に和衷共濟通工易事の本能を發揮し憂國愛民的理想に依り斷乎勇往邁進せば列強の覬覦睥睨も毫も怖るゝに足らざるなり」。
だが、「今や中日兩國は歐米某國の惡辣煽動教唆に基く種々の猜疑に由て、深大なる誤解を胚胎し或は又其使嗾に依る謡言蜚語の影響を受けて」いるそうな。《QED》