――「劣等な民族が自滅して行くのは是非もないこつたよ」東京高商(12)東京高等商業學校東亞倶樂部『中華三千哩』(大阪屋號書店 大正9年)

【知道中国 1872回】                       一九・三・仲五

――「劣等な民族が自滅して行くのは是非もないこつたよ」東京高商(12)

東京高等商業學校東亞倶樂部『中華三千哩』(大阪屋號書店 大正9年)

この若者は「何ぞその臥薪嘗胆の悲痛なる」と綴り、「主として支那が直接關係する領土方面」における「國耻」に同情を寄せている。

さらには「各種の方面に於て或は鐵道の敷設經營、鑛山の採掘事業の投資、かうした場合にも歐米人なら必ず利�折半で隱當だが日本人は大抵の場合四分六分だといふ、しかもいろんな有利な密約なんかを劍を以て強迫して定めると訴へられた時僕はむしろ彼らに同情したくなる」と、日本の強圧姿勢を前にして受け身になる中国側に同情を示す。

若者が2つの同情を寄せてから12年が過ぎた昭和6(1931)年の春――数か月後には満州事変勃発する――、日本における英語学の祖とされる市川三喜は北平(北京)を旅し、「北平で新教育によって名高い孔徳学校を参観」した際の思いを次のように綴った。

「日本に対しては国恥地図が小学四年の室にかけてある」のを見て、「阿片戦争やなんかはおかまい無しの、日本を目標としたものだ。よき支那人を作る為には、其自尊心養成に必要なら、国恥地図も是非無いとしても、そんなら各国からうけた恥を大小の順に並べるがいい。さしあたって突かかる目標なる日本に対しての反感を養うべく琉球までを、奪われた、此恨不倶戴天なんて焚きつける事は、教育をして人間を作る機関から切り離し、国家の道具製造場と化す苦々しい態度だと思う」のであった。

若者が「國耻」に同情を寄せたのは大正8(1919)年。一方、壮者の市川が学校は「国家の道具製造場と化」し、「さしあたって突かかる目標なる日本に対しての反感を養うべく琉球までを、奪われた、此恨不倶戴天なんて焚きつける」と憤慨したのは昭和6(1931)年――同情から憤慨へ。一介の若者に対するに第一級の英語学者である。経験、識見、社会的影響力に大きな違いはあれ、同じような事象を捉えながらも、真反対の反応を示す。この間に過ぎた年月は僅かに12年に過ぎないものの、やはり12年の間に両国を取り巻く内外状況が激変したということだろう。

だが、こうは考えられないだろうか。同情も憤慨も支那=中国に対する過度の思い入れに起因している。そうなって欲しくないから同情し、そうではないだろうと思うから憤慨する。どちらにしても心情的には根っ子は同じだ。

ここで甚だ飛躍するが第2次世界大戦、ことに中国戦線において重要な役割を演じたアルバート・C・ウェデマイヤー将軍が綴った『第二次大戦に勝者なし  ウェデマイヤー回想録(上下)』(講談社学術文庫 1998年)の冒頭に掲げたアメリカ初代大統領のJ・ワシントンの「訣別の辞」を挙げておきたい。

「国家政策を実施するにあたってもっとも大切なことは、ある特定の国々に対して永久的な根深い反感をいだき、他の国々に対しては熱烈な愛着を感ずるようなことが、あってはならないということである。(中略)他国に対して、常習的に好悪の感情をいだく国は、多少なりとも、すでにその相手国の奴隷となっているのである。これは、その国が他国に対していだく好悪の感情のとりこになることであって、この好悪の感情は、好悪二つのうち、そのいずれもが自国の義務と利益を見失わせるにじゅうぶんであり、(中略)好意をいだく国に対して同情を持つことによって、実際には、自国とその相手国との間には、なんらの共通利害が存在しないのに、あたかも存在するかのように考えがちになる。一方、他の国に対しては憎悪の感情を深め、そこにはじゅうぶんな動機も正当性もないのに、自国をかりたて、常日ごろから敬意をいだいている国との闘争にさそいこむことになる・・・(以下略)」。

大正8年の同情から昭和6年の憤慨へ・・・「熱烈な愛着」から「根深い反感」へ。《QED》


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