――「劣等な民族が自滅して行くのは是非もないこつたよ」東京高商(5)
東京高等商業學校東亞倶樂部『中華三千哩』(大阪屋號書店 大正9年)
折から起こる反日運動の背景を、若者は考えた。
たとえば上海租界の「義勇隊などの御厄介になるのは日本人が一番多い癖に志願者は一人もないそう」であり、フランス租界にあるフランス経営の公園に「休日など行つて見たら、日本人が大部分を占領してゐ」たり、軽快な服装をした西洋人親子が楽しんでいる中に、その輪に加わることなく「汚れた着物を着流して時代後れの深ゴムの靴、眞�い三年越しの麥藁帽を阿彌陀に被つて腰には烟草入れを下げてゐ」たり――上海在留日本人の姿は「外人のそれと比較して何たる對照だらう」。
極め付きは蘇州で街頭での体験になる。彼ら日本人学生が「三十人も騒がしく鈴を鳴してこの狹い道を通つて行くと、兩方の家の内から皆んなが飛出して來て、色�く陽に焦げけた東夷の學生が馬上顧眄の豪傑振り乍ら、しかも、落馬せんとし乍ら往くのを眺めた。この大勢は少なからず蘇州の排日氣勢を昂めたことゝと思うはれる」。
日本人自らの無自覚な振る舞いもまた「排日氣勢を昂めた」と考える“若者の感覚”と、「序」に記された「拝日問題で注意すべき一事は」、「歐米の商品を扱つて居るものが故意にやる外は支那で相當名のある實業家や多數商人は一般に日貨排斥の意志を眞から持つては居ないので唯學生の危害を惧れるのと民衆への氣兼から形式的にやつて居る仕事である云ふ點である」と指摘する“大人の思考”の間の落差は、いったい何に起因するのか。
それが世代の、人生経験の、あるいは世間知の違いに直接的に結びついているとも思えない。この時から現在にまで続く中国における排日、あるいは反日の動きを振り返るなら、「(上海共同租界の)義勇隊などの御厄介になるのは日本人が一番多い癖に志願者は一人もない」ことへの疑問、大正時代の若者が上海の公園で感じたであろう気恥ずかしさ、「東夷の學生」が蘇州の街路で皮膚感覚で直感したであろう一種の蔑みの視線は、やはり軽視すべきではなかったのではないか。
この時の“義憤”が「政治家や實業家は恕す可しと雖も、考のあると云はれる學者までが浮れて日支親善なぞと眞面目くさつてるのは言語同斷だ」との思いに繋がっているように思えて仕方がないのだが。
もう少し、日本人の振る舞いに対する若者の考えを追ってみたい。そこで、漢口の租界を訪ねた際の感想を見ておくことにする。
「何處でもそうだが、殊に支那などに於ては、未だ一般に外國の事情に通ぜぬので、多くは服装の良否や、建物の大小美醜などで、其國の優秀貧富などを、きめる傾向があるから、列強と相對峙して、威勢を張り、發展を策するには、どうしても此點に於て、大なる注意を要し、居留地には他國に劣らぬ設備をなすと共に」、在留者であれ旅行者であれ服装から立ち居振る舞いにいたるまで、やはり「他國人に劣らぬだけの心掛けが大切」だ。それというのも、「既に體格に於て、歐米人は無論、支那人よりも見劣りのする我々が、服装でも醜かつたらば、彼等の蔑視を受けるのは當然である」からだ。
言わば見た目がイチバン。嘗められたら最後で、トコトン嘗められてしまう。
ところが「昨夏來遊した向陵の健兒」――東大の前身である第一高等学校の学生――は、やってはイケナイことをヤッチまった。日本では超エリートであればこそ許される弊衣破帽というバンカラスタイルも、外地では一切通用しない。だが、彼らは「矢張内地そのまゝの蠻から姿でやつて來たので、事情を知らぬ外人や支那人から、日本で最も有名な學校の生徒があの姿では、と少なからぬ侮蔑や指彈を受けて、在留邦人も大いに迷惑した」。「之れは尤もの事で日本人たるものゝの深く省みねばならぬ事柄である」ことは確かだ《QED》