――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘34)
橘樸「中國人の國家觀念」(昭和2年/『橘樸著作集 第一巻』勁草書房 昭和41年)
次に橘は「『吃飯問題』なるものを提起し、三民主義は中國民族の爲に吃飯の問題を解決する唯一の鍵であると主張する」と、「吃飯問題(メシを食う問題)」を取り上げる。そこで「多くの社會主義者は貧富の不均等を非難するが、中國民族それ自體が貧なのであるから、貧富の不均等なる問題はまだ起こり得ない。從つて中國人の吃飯問題を解決するには先づ中國民族自體を富ます外ない」との孫文の言葉を引用し、孫文の掲げる三民(民族独立・民権伸長・民生安定)主義の核心は民生主義であり、「吃飯問題」であるとした。
ここで思い出すのが、社会運動に立ち上がった若き日の毛沢東が自らが編集した『湘江評論』(1919年7月~8月)に掲載した論文である。このなかで毛沢東も革命とは「吃飯問題」と言っていたはずだ。天安門事件における民主派弾圧・人権軽視を非難されるや、たしか鄧小平は「中国の人権は西欧とは違い、メシを食わせることだ」と傲然を言い放ったと記憶しているが――となると毛沢東も鄧小平も、共に孫文のパクリ(孫文=毛沢東+鄧小平)となるのか。
かくて橘は、「鞏固にして清新なる民族國家の建設」が「國家資本主義の遂行」を可能にし、それが「發財主義」に繋がり、「吃飯問題」を解決すると、孫文の考えを整理した。そして「理論的には之で國家と個人生活との密接な利害關係を説明し得た」とする。だが、これでは「無智なる民衆が斯る説明に耳を傾けようとは思はれない」と、中国におけ膨大な数の「無智なる民衆」を説き伏せ納得させることの難しさを説く。
孫文亡き後、「孫文の忠実なる弟子達」は「發財主義」「吃飯問題」を口にしなくなった。それは「凡て無智なる民衆は抽象的な觀念を受入れるに適しない」からだ。言うならば民衆はバカだから、もっと分かり易く説明しろ、ということだ。それが、バカで即物的な民衆を恃まない限り成就できない中国における革命が負わされた宿命なのだろう。
「孫文は優れた宣傳者であつた」が「民衆に對する直接の接觸を怠つた」。だが「彼の民衆宣傳は結局無効に終つた」わけではないと、橘は孫文による「實者敎育」に話題を進める。
孫文が亡くなる前年(1924年)に広東で「一方で國民黨の節制を受け、他方に赤色インターナショナルと聯絡するところの全國總工會」が組織されたことで、「國民黨の勞働界に於ける覇權は確立した」。国民政府(国民党)の指導の下で展開される労働運動が「發財主義」「吃飯問題」を解決することで、「勞働者の國家觀念を啓發するに役立つ」た。その結果、国民政府の影響下にある広東の労働者は「孫文の熱心に期待した通り、自身が其の構成員となつて利益を享受し得る樣な國家を創造する爲の運動に自ら進んで參加する事となつた」。「起て、餓えたる者よ!今ぞ、“發財主義”の日は近し!」だろうか。
「中世的の農業國」である中国においては、「社會革命を最後の目的とする政黨」にとっては「工業勞働者より遥に重要な者は小農民でなくてはならぬ」。晩年に至って孫文は、「彼等(小農民)に充分の土地を與へる事が民生主義の一大眼目であると繰返し主張した」。だが具体的方法を示していたわけではない。
そこで孫文の後継者は「小農民の組織として農民協會」を組織して、「農村から全國に至る迄の階級的組織を完成させようと計畫した」。「農村で都市の包囲を!」なら林彪だ。
「農民協會章程」に依れば、同協会は「三民主義が勞働階級を解放する趣旨に基き、被壓迫者なる全國の貧苦な農民に」によって組織され、「農民の自衞を謀り、竝に農村組織の改良、農民生活の増進を指導する」ことを目的とした。広い中国では農村・農民は多種多様だが、「農民協會の中心勢力は小作農殊に分益小作農であ」ったのである。《QED》