――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港25)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港25)
【知道中国 2143回】                       二〇・十・初六

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港25)

「不怕飢餓 不怕烈日(飢えも烈日も恐れない)」「剥削 剥削! 再剥削! 便是香港的繁栄!(搾取、搾取! 再搾取! これが香港の繁栄だ!)」である。この種の政治的惹句が大袈裟になることは致し方がないが、昨年来の香港の街頭で若者が掲げる「時代革命」「光復香港」との違いに、やはり半世紀の時の流れを痛感せざるを得ない。

さて中国系デパートの中間管理職の彼はインドネシア生まれ。幼い日に「9・30事件」に巻き込まれ、一家離散の末にインドネシアを脱出し香港に落ち着いたという。家族のその後は不明のままだったようだ。

1965年に発生した同事件は、当時は中国を除き世界最大の党員を擁していたインドネシア共産党(アイジット議長)が文革の影響を受け武力で政権奪取を狙った。これをスハルト将軍を指導者とする陸軍が制圧したことで、結果的に政権が容共姿勢の「建国の父」と呼ばれたスカルノ大統領が退陣し、スハルト大統領が誕生し、1998年までスハルト長期独裁政権が続いたことになる。

事件の経緯・真相に就いては謎が余りにも多く、一方的にスハルト陣営を断罪したところで問題は解決しない。事件に関わったすべての勢力――スハルト陣営、インドネシア国軍内非スハルト勢力、スカルノ政権、インドネシア共産党、中国、さらにはアメリカ、あるいは旧宗主国のオランダ――にとって、おそらく1965年9月30日に集約される動きは“不都合な真実”の集大成であるはず。ならば「クサイものにフタ」という鉄則を翻し、パンドラの箱を開けるようなバカはいない。これまた国際政治の鉄則と言うものだろう。

とはいえ事実としてはインドネシア共産党員を中心に犠牲者の山が築かれ、強烈な排華運動が起こり多くの華僑が犠牲になり、インドネシアを脱出し中国に戻った華僑も数知れず。中国側は専用農場を設け、彼らの対応に当たったといわれる。当初はインドネシアの反動独裁政権の犠牲者として大歓迎したが、文革の渦中でもあり、彼らの面倒を見る余裕はなかったはずだ。彼らに用意された専用農場の多くが山間僻地の痩せた土地に立地されていたことなども重なり、見ず知らずの土地で過酷な生活を余儀なくされたわけだ。

中国系デパートの中間管理職の彼は、どうやら中国に向かうことなく香港で育ったらしい。1980年代末に不治の病に罹り親族もいないままに異土に等しい香港で亡くなったが、第一日文の仲間が交代で手厚く看護し、最期を看取った。

彼は自分の体験に基づいて、香港暴動後の数年間の香港左派の日常活動を語ってくれた。彼の記憶と、その後に手に入れた資料を基にして、1968年から70年にかけての“香港の文革”を素描してみたい。

九龍の庶民の街である旺角の西隣に位置する大角嘴は、当時は小さな町工場と商店と港湾作業員の、いわば庶民・労働者の街だった。昼前の街を歩くと、港の仕事が一段落した労働者たちが歩道に屯し、ある者はしゃがみ込み、ある者は立ったまま、シャツを胸まで捲り上げて腹を露にした例のスタイルで、人群れの真ん中に置かれた大き目の茶碗を注視している。一瞬の静寂の後、賽子が2つ投げ込まれる。チンチロリンだ。

そんな街の一角にあったレストラン金山楼で、1968年の国慶節に左派系労働組合の香港女服工会による国慶節祝賀集会が開かれている。会場を記録した写真を見ると、レストラン入口の上部には、10m×5mほどの巨大な毛沢東の立ち姿の看板が掛かっている。足下の巨大な真っ赤な太陽の中央に記された「忠」の字がの周囲には、多くの向日葵が配してある。向日葵は太陽の陽光を浴びてこそ活き活きする。太陽である毛沢東の御恩を忘れるな、である。巨大看板の右端には上から下へ「最光栄的偉大的正確的中国共産党万歳」、左端には「世界人民心中最紅的毛主席万歳」と大きな文字。周囲に林立する五星紅旗・・・。《QED》

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