――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港20)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港20)
【知道中国 2138回】                       二〇・九・念六

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港20)

ここで「鬼?小販」の根城でもある重慶大廈(CHUNKING MANSIONS)について記しておきたい。それというのも、重慶大廈を知らずして香港を語ること勿れ、と思うからだ。

重慶大廈が完成した1961年、毛沢東が掲げた急進的社会主義化政策である大躍進が大失敗し、中国は大飢饉に襲われていた。大量の難民が飢餓地獄の中国から逃れ香港に押し寄せる「大逃港」と呼ばれる騒然とした時代であり、もちろん香港も貧しかった。そんな時代に、九龍の先端部に位置する尖沙咀を縦に貫く弥敦道に面した場所に、当時としては最も高かっただろう17階建ての建物が出現したわけだから、誰もが見上げて驚いたはずだ。

壁面になんの意匠も施されず、四角い巨大な棺桶のような無骨極まりないビルではあるが、60年代初頭の香港では珍しかったエスカレーターが設けられ、高級宝石商が店を構え、豪華な夜総会(ナイト・クラブ)もあったというから、さぞや煌びやかであったろう。

60年代前半には映画スターや英国駐留軍幹部が邸宅を構えていたと説く人もいれば、完成から程なくしてゴミ屋敷同然の惨状だったとの証言もある。想像するに安普請で、高層ビルのマガイモノだったのではなかろうか。香港製がニセモノの代名詞の時代だった。

60年代後半から70年代初頭にかけて、一帯にはヴェトナム戦争のニオイが漂っていた。休暇で香港を訪れる米兵が屯し、彼らの求めに応ずる若い女性たちの嬌声が飛び交っていた。みやげ物を漁るのは、帰還する韓国軍兵士だった。兵士らと入れ替わるようにやって来たのが海外からの観光客であり、バックパッカーやヒッピーだった。1階の目立つ場所は観光客相手のポルノショップや両替店に、2階以上は安宿に、いつしか模様替えしていた。

安宿が増えれば世界各国――ことに南アジアやアフリカからの漂泊者が定住する。そこで一般の住人は出て行ってしまう。かくて出現した人種の坩堝のような空間では、南アジアを中心に世界各地の言語が飛び交い、彼らの旺盛な生活力が発揮されることになる。国際化などという言葉が日本で話題になる遥か以前に、尖沙咀に一角の老朽ビルには国際社会が出現していたのである。

尖沙咀の裏町で飲み明かした時などは、安宿にお世話になったことも屡々だった。迷路のように入り組んだ廊下を倉庫代わりに、南アジア、中東、アフリカの人々が立ち働き、天井には電線がのたうち回るヘビのように張り巡らされていた。おそらく住人が盗電気味に外から勝手に電線を引いていたに違いない。

当時、重慶大廈の名物は火事だった。大袈裟な表現だが、重慶大廈の前の弥敦道には消防車が常駐しているかと思えるほど頻繁に火災を起こしていた。タコ足配線が原因だったと思われるが、火災保険目当ての詐欺まがいの失火も珍しくはなかっただろう。

2020年現在の状況は不明だが、2008年の記録を見ると、重慶大廈の権利所有者は920人。そのうち549人が個人住宅で、371人が店舗。30%ほどが南アジア系で、残りの70%の大部分は中国大陸系。香港生まれは極く少数ということからも、香港の中国化の姿が窺えるはずだ。その典型例が、1997年の返還前後から長く所有者組合理事長を務める林惠龍だろう。福建出身の彼女は、�小平が開放政策をブチ上げた79年に香港にやって来ている。電気製品工場などで働いた資金を元手に、重慶大廈で安宿経営の権利を買い取り、やがて所有者となり、1994年には所有者組合理事長へ。

年1回開催の組合主催宴会で飛び交うのは英語にウルドー語。これに次ぐのが中国語、ヒンディー語、スワヒリ語、フランス語、ベンガル語、パンジャブ語など。もちろん誰もが流暢な広東語を話すから、組合員に共通語は広東語になる。「現代の九龍城」で呼ばれるほどに魑魅魍魎の住む重慶大廈は、また香港で最も国際化された社会でもある。

 重慶大廈は、香港版国家安全法下の香港社会をどのように生き抜くのか。《QED》

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