――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港114)

【知道中国 2232回】                       二一・五・仲三

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港114)

 1988年に封切られた香港映画『七小福』は、1970年代半ばから一世を風靡した香港製功夫映画で数多くの主役を演じ、その後のハリウッドへの道を切り開いた洪金寶(サモ・ハン・キンポー)や成龍(ジャッキー・チェン)の子供時代の京劇修行の日々を描いた作品だが、フィルムのなかに茘園遊楽園の夜景がチラッと映っていて懐かしい限りだ。

 茘園遊楽園の敷地に建てられた鉄塔に「茘園」と「ZOO」の文字が浮かぶ。だが、どう見ても遠目には「ZOO」ではなく「200」としか見えなかった。

 茘園は何本かの路線バスの終点だから、バス停はやや広い。それに来客用の駐車場があった。バス停の前は入江状の浅瀬で、その先に「美孚(モービル)」の名を冠した高層住宅群の「美孚新邨」があった。

 何台もの路線バスが発車待ちをしているバス停の先の4、5段の階段を下りると、そこが茘園の正門である。当然のように入場券購入となるが、たしか香港滞在の5年ほどの間に3回ほど値上げされ、最後は大人1.5ドル(日本円で100円ほど)だったような。

 値上げを前にして、切符売り場の壁に事前の知らせが張り出される。「諸物価・諸費用が高騰のため、やむを得ず価格調整を致します」というわけだ。ストレートに値上げとは言わず「価格調整」との見事に“大人の表現”である。さすがに頭を下げざるを得ない。

 頭を下げざるを得ないような仕掛けが、じつはもう1つ。入場ゲートの鉄枠に縛り付けられた高さ1メートルほどの極く当たり前の1本の棒である。これより背が小さい入場者は「小人」だから無料扱となるシステムである。便利と言えば便利な“装置”だが、その後、東南アジアのチャイナタウンの旧い劇場でも見掛けたし、10年ほど前に北京北方の熱河にある清朝時代の離宮を見学した際も、入口ゲートに同じ棒が備わっていた。

 じつは秦の始皇帝時代の法律文書を含む『雲夢睡虎地秦簡』(1975年発掘)には、役人が手にした棒でヒトの背丈を測り、それより高ければ大人として税を徴収したといった類の記述があった。たしかに生年月日などが不確かな場合は、背丈で「大人」「小人」を判断するのが正確で手っ取り早い。それに合理的で平等と言えるだろう。

かりに始皇帝の時代の徴税役人が手にしていた棒が茘園などの入場ゲートの棒の淵源だとするなら、まさに2千数百年の歴史ロマンであり、シーラカンス並みの生きた歴史だ。香港で始皇帝時代の“遺風”にお目に掛かれようとは不思議、幸運の極み、いや奇跡。有難い限り。漢族庶民社会の生活文化における伝統の重みを、改めて思い知ったもの。

 ゲートの脇には体の大きなインド人のモギリが控えている。体の近くに銃を立てかけていたが、空砲とのこと。当時の香港では銀行やら宝石店、あるいは外国人観光客相手の高級土産物店の入口には、たいてい巨躯のインド人やらパキスタン人がこれみよがしに銃を手に警備していたものだ。こちらも実弾が装填されているわけではない。ならば警備の役には立たないだろうと思うが、そうでもないらしい。それというのも、実弾でも込められていたら雇い主の方で落ち着いて商売ができないから、とか。まあ、これは眉にツバつけて聞いた方がよさそうな類の“ここだけの話”ではあるが。

 さてゲートを無事通過すると、真正面の広場には回転木馬、仰々しくも「摩天林」と名付けられたチャチな観覧車、猿の乗らないお猿の電車、コインゲーム・センター、卓球場、「香港唯一」がウリのアイス・スケート場、超低速で全長が50メートルほど(?)のジェット・コースター、それにモノレールなど――まるで東京浅草の「花やしき」のようだが、この手の遊具はどこの遊園地にでもあるから、あまり面白くはない。

やはり半世紀過ぎた今も印象に残るのは、競馬ゲームとタイルを使ったコイン投げ。今風の表現に倣えば超ローテクでホッコリした手造り感が満載。超人気だった。《QED》


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