――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港140)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港140)
【知道中国 2258回】                       二一・七・卅

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港140)

 香港返還とは一面で北京のオ殿サマと香港の越後屋の饗宴であり、それほどまで両者の利害はスイングしたということだ。やはりオ殿サマも越後屋も共にワル、それも稀代の大ワルなのである。

 昨今の日本ではオ殿サマの“凶悪度”のみが糾弾されるが、じつは越後屋だった負けてはいない。ワルの越後屋のサジ加減を見誤るから、香港の姿を平板極まりない民主VS強権という二項対立で捉え、納得し、軽々しく激怒してしまうのだ。おそらく、これから疾風怒濤の時を迎えるに違いない両岸関係にしても独立VS統一、民主VS強権では簡単には解き得ない複雑極まりない局面が次々に出現すると思われる。やはり台湾にも越後屋がいないわけでない。いや、いると考えるのが常識と言うもの。そのことを忘れるべきではない。

日本では日中関係を政治と経済とに分け、「政経分離」「政熱経熱」「政冷経熱」などとラチもない4文字を弄んで原則なきご都合主義でお茶を濁してきた。これからもそうだろう。

そこへいくと彼らの場合にはウソ偽りナシ。ことに返還に当っては正々堂々と、誰憚ることなく「政経癒着」「政経談合」「政経合体」「政経両得」で押し通してみせた。それを「愛国商人」の4文字でコーテイングして。アッパレとしか言いようはないが、この関係が成り立つのも、越後屋が手練手管を弄し、オ殿サマと丁々発止と虚々実々の駆け引きを繰り広げてきたからだ。これこそ正真正銘の、支配されながら支配するというカラクリだ。

であればこそ、その実態を詳細に綴る必要があるわけだが、本稿の狙いは70年代前半の殖民地時代の回想である。だから余り深入りせず、両者の蜜月風景の一端をチラッとだけ見ておくことにしたい。もちろん、中国が「過渡期」と位置付けた返還までの日々に繰り広げられた欲と得との競演(狂演?)に関しては、いずれ詳細に綴る必要はあるだろうが。

 1982年3月、先ずイギリス側が動き、訪中した議員団が香港の将来問題に関する交渉の早期開始を求める。すると不安になった香港の企業家たちを北京に迎え、�小平は97年前後に香港の主権回復を明言すると共に、香港の安定と繁栄の維持を約束した。すでに化かし合いは始まっていた。82年6月のことである。

 3か月後の82年9月に訪中したサッチャー首相を迎え、�小平が香港問題に関する基本的立場を語る。ここで割譲した香港島と九龍の領有を主張するサッチャー首相に対し、�小平は「バカなこと言うものではない。あれは貴国が軍艦で脅して強奪したもの。断固として返してもらいますよ」とピシャリ。この時点で、流れは一気に中国ペースで動き出す。

 ここで不思議に思うのは、�小平がサッチャーの横っ面を張ったのが9月24日で、この動きに呼応するかのように、時を置かずして香港のある学生組織が�小平発言支持を打ち出し、「香港島割譲を定めた南京条約、九龍割譲を記した北京条約は共に不平等条約だ」「香港は中国の神聖な領土の一部だ」「香港を取り戻すことは中国人民の神聖なる責務だ」と訴えたことである。だが、この動きを返還に向けて中国側が仕掛けた環境醸成工作の一環と考えるなら納得できそうだ。ありえない話ではない。

 中国からの帰路に香港に立ち寄ったサッチャー首相は、9月27日に「(南京・北京の)両条約は正当な国際条約であり、如何なる理由があっても中国側の考えは認められない」「イギリス首相として香港に対する責任、イギリスとして香港の人々に対する責務を果たす」と言明した。首相会見場の場外では、中文大学と理工学院の学生代表が「不平等条約反対」「中国侵略条約は断固として認められない」などのプラカードを掲げ気勢を上げていた。

 10月1日の『人民日報』が「サッチャーの香港談話は断固として認められない」と報じた。香港廠商聯合会に集う企業家が北京に馳せ参ずるや、11月20日、中国政府要人は「主権回復」「港人治港(香港人による統治)」「制度不変」「繁栄維持」を口にしたのだ。《QED》

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