――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港104)
毛沢東が自らの暴力革命理論の要諦を「槍杆子(てっぽう)から政権が生まれる」と表現していることは夙に知られているが、じつは毛沢東が「槍杆子」と同等に、あるいはそれ以上に重要視し、巧妙・縦横無尽に使ったのが「筆杆子(ペン)」、つまりメディアによるイメージ戦略である。
権力の甘い汁に引き寄せられた最高の頭脳は、権力の狙いのままの役割を果たす。文字を知る相手には膨大な文書を紡ぎ出し、膨大な古典から片言隻語を選び出し巧妙に組み合わせながら、政敵の頭上に「紙の爆弾」の絨毯爆撃のように浴びせ掛ける。一方、文字を知らない圧倒的多数には演芸(芝居、お笑い、歌など)という娯楽をテコに洗脳工作を展開する。娯楽=教育=洗脳というカラクリである。
かくして文革とは一面では毛沢東の意を受けた、あるいは忖度した筆杆子が八面六臂の大活躍をしたハデな舞台でもあったのだ。
この伝統は現在にも続く。TVニュースなどに登場する共産党政権の公式見解を発表する男女の「報道官」の振る舞いなど、まさにそれだ。
以下、筆杆子による攻撃的で空虚で牽強付会な、いわば鼻白むようなリクツ(=ほぼヘリクツ)が続くことになるが、筆杆子が得意とする常套手法を知るうえからも、暫しの忍耐をお願いする。なお、原文でゴチックで強調されている部分には下線を引いておいた。
というわけで、各々の正史が出版された時間を追って「出版説明」の狙いを探ってみたい。先ずは『周書』(71年11月出版)である。
「搾取階級は歴史編纂に当たり必然的に歴史を?倒させようとする。とどのつまり彼らは、搾取階級の中の『高貴な人物』を歴史の主宰者とする一方で、逆に歴史を真に創造する人民大衆をカスと見なしてしまう」。王朝の歴史を公式に書き留める官僚である「封建史官は反動的な英雄史観、反動的な『天命論』を大いに宣揚し、人民が創造した歴史を帝王やら宰相の歴史に作り変えてしまう」。だからこそ今、「我われは毛主席の『人民、人民こそが世界の歴史を創造する原動力である』との偉大なる導きに従って、〔中略〕歴史の本来の姿を取り戻さなければならない」――
まだまだ延々とヘリクツが続くが、要するに生まれながらの「天才」はいないと言いたいわけだろう。つまり林彪の説く「天才論」を歴史の上から否定しようと狙った。歴史学の立場から反天才論を打ち出そうとした。だが、『周書』が出版される2か月以前に林彪が自らコケてしまった。想定外の椿事であっただろう。
要するに中国においては、歴史学という学問は筆杆子が跳梁跋扈する権力闘争の修羅場と理解すべきなのだ。中国における学問とは、古来、そのような性質を色濃く帯びていた。学問とは権力と密接不可分なもの。おそらく、これまでも。そして、これからも。
『南齊書』が出版された1972年1月は、林彪夫妻のモンゴルにおける“不審死”から4か月後、ニクソン訪中の1か月前に当たる。
「『南齊書』は歴史唯心主義を訴える。英雄史観と宿命論を繋ぎ、王命論の観点を宣揚する。〔中略〕王命論を主に支えるのが仏教における因果応報説だ。仏教の道理が儒教と道教を超越しているとデッチあげている。〔中略〕『階級闘争とは、ある階級が勝利し、ある階級が消滅すうことだ。これが歴史であり、これこそが数千年の文明史である。このような視点で歴史を解釈することが歴史的唯物主義であり、このような視点の反対に位置するものが歴史的唯心主義だ』と、毛主席は我われ教え導く。『南齊書』は歴史的唯心主義によって歴史の真の姿を転倒させてはいるが、いま我われは歴史的唯物主義の視点から再吟味するなら、南斉時代の階級闘争の状況を見定めることができる」。饒舌難癖・無理圧状!《QED》