――「理屈に拘泥せざる支那人の心境を、余は面白しと感じたり」――遲塚(1/5)遲塚金太郎『新入蜀記』(大阪屋號書店 大正15年)

【知道中国 2035回】                       二〇・二・念二

――「理屈に拘泥せざる支那人の心境を、余は面白しと感じたり」――遲塚(1/5)

遲塚金太郎『新入蜀記』(大阪屋號書店 大正15年)

遲塚麗水(慶應2=1866年~昭和17=1942年)は駿河生まれ。講談社の創業者・野間清治が明治44(1911)年に創刊した大衆娯楽誌『講談倶樂部』に中里介山、長谷川伸らと共に拠った大衆文芸作家。大正4(1915)年に山東地方を歩いて記した『山東遍路』(春陽堂 大正四年)で登場している(拙稿1742回~1744回)。

冒頭の「凡例」に、「新入蜀記は、著者は昨年三月、程を上海より起し、長江沿岸の名勝史蹟を踏遍して三峽を踰へ、四川に入り、重慶より成都に至る一百餘日の汗漫の游びをしるしたる日記なり」とある。「昨年」は大正14(1925)年に当たるから、今回の四川旅行と前回の山東旅行との間には10年の時が流れている。

この10年間を振り返ると、二十一カ条要求に基づく日華条約調印(1915年5月5日)、五・四運動(1919年5月4日)、五・三〇事件(1925年5月30日)と反日・排日感情を誘発・刺激する動きが起こっている。これに対し、日本側に反発の動きが高まるのは必然だが、東洋経済新報社に拠る三浦銕太郎や石橋湛山らを中心に「満洲放棄論」や排日運動への過度の反発を諌める見方も生まれた。

一方の中国に目を転ずると、1919年の五・四運動失敗の灰燼の中から1921年には中国共産党が誕生する一方、国民党の基盤強化を目指した孫文はソ連の援助を受け顧問を招き、1924年には国民党を改組し、共産党員による個人資格の入党を認めた(第1次国共合作)。同時に孫文は「連ソ・容共・扶助工農」を掲げ、軍閥と帝国主義打倒を打ち出す。

孫文が「革命、未だ成らず」を遺して北京で客死した1925年に起こった五・三〇事件は、反帝国主義運動として全国各地に波及した。同年7月、国民党は広州に国民政府を設立し、翌26年には蔣介石が国民政府軍を率いて北伐を開始し、中国統一への道を進み始めている。

遲塚の旅行は1925年3月から100日余ということだから、孫文の死も五・三〇事件も、この間に起こっている。だから旅行と同時進行で起きていた重大事件に対する現地での反応などに関する報告を期待したいところだが、「旅次各地方に割據する群雄の消長と民心の險易とは、我邦に在りては未だ全く知られざるもの多けれども、この書は唯著者が遭遇し親睹したるものゝみを記し、議論を挾むことを避けたり、要は讀者諸賢の周密なる考索と推斷とに任す」(「凡例」)としているところから、敢えて“時評”の類は避けたのだろう。そこで遲塚の考えを踏まえながら、『新入蜀記』を読み進むことにしたい。

「潮は漸く黃色より褐色となり、やがて味噌汁のごとき色となる、西蔵の高原より湧く楊子江の、泥土を海に齎し來る」なかを進み、遲塚の乗る長崎丸は「上海の埠頭に着す」。

翌日は上海城内の雑踏を抜けて湖心亭へ。「湖心亭といふと、水碧に沙明かに、彫欄是を繞つてさながらにして晴波を弄するに堪へたる處なるべしと讀者は思ふけれども、實は穢雜なる市廛の細溝を流れ出づる糞や小便の水を堪へたる池」に過ぎなかった。

中央に位置する亭は高く尖った屋根を持つ「古風な建築なれど、修理もせずして荒廢に任せ」たまま。そこが「料理店となりて、茶を飲むもの酒を酌むもの、立錐の餘地なきほどにて、拳を鬪はし、歌をうたひ、紛然、雜然、奇態百出す、昔の小學校讀本ではないが、凡そ地球上の人種のうちにて、第一番に饒舌なるは支那人にて、更に一番高聲に語るものも亦支那人なり、尋常一樣に會話の時にても嚙みつくやうに大聲疾呼」している。「その饒舌にして且大聲の持主なる支那人の群居する此等茶館の喧囂は、氣の弱き東洋の一文士も、耳を掩ふて走り且僵れんとするなり」。

だが彼らと共に過ごし、彼らの「嚙みつくやうに大聲疾呼」に慣れ親しんでしまうと、「その嚙みつくやうに大聲疾呼」を心地よく感じるようなってしまうから不思議だ。《QED》


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