――「理屈に拘泥せざる支那人の心境を、余は面白しと感じたり」――遲塚(5/5)遲塚金太郎『新入蜀記』(大阪屋號書店 大正15年)

【知道中国 2039回】                       二〇・三・初一

――「理屈に拘泥せざる支那人の心境を、余は面白しと感じたり」――遲塚(5/5)

遲塚金太郎『新入蜀記』(大阪屋號書店 大正15年)

重慶から成都への旅は10日ほど。途中の田舎町で「支那風の座敷に、日本疊が十二疊」の部屋に泊まる。夕餉の席の「給仕の女、齡は三十路を踰へたらし、長崎の者が多い中に、これは珍しい東京辯、代々木の山谷で料理屋をしてゐたといふ、お宅のお孃樣のお髪を上げた天神橋の結髪婦さんも懇意ですし、お宅も存じあげてゐますといふ、正しく天涯倫落の人である」。江戸の仇ならぬ東京での知り合いの知り合いに四川の田舎町で。超奇遇だ。

「代々木の山谷で料理屋をしてゐた」女性が、なんのワケがあって揚子江沿いの田舎町に流れ着き旅館の給仕なんぞをしているのか。この「天涯倫落の人」のその後も知りたいところだが、とにもかくにも大正末年に、中国の田舎町で「齡は三十路を踰へたらし」い「東京辯」の女性が働いていたことには驚いた。ということは、他にも少なからざる日本女性が中国奥地で働いていたに違いない。さて、この「東京辯」の女性も、かの稀代の自己宣伝屋で女衒の村岡伊平次の“伝手”でやって来たのだろうか。

10日ほどの不安の旅の後、雨の中を成都着。早速、「成都城内の西南、通俗�育博物館の園池に近き處」にある日本領事館へ。館員に住むのは總領事代理の1名のみ。それに「夫人兒女數人」。「居留民は唯理髪師某の一人あるのみなり」。なぜ、床屋さんが1人で成都に。

10日ほど前のことと言う。「無頼の市民、領事館に亂入し、應接室、事務室の椅子、卓子、窓硝子を打ち毀ち、器物若干を掠略して去れり」。かくて「我が領事館はさながら廢屋に如し、言ふべき辭を知らず」。反日勢力の襲撃だったに違いない。

翌日、通俗教育博物館を訪問すると、「その一室に五卅事件に死傷したる學生等の寫眞を並べ懸けたる、こゝにも排外の鋒芒は露はれたり」。

道教の大本山を訪ねると、そこは兵士の宿舎となっていた。「宿舎の兵士群れ集ひ、簷を傳へて浣衣を晒すあり、石壇の上に竈を築いて飯を炊ぐありて、狼藉を極めたり」。

某日、郊外を歩き宿を探す。「主人と覺しき老人立ち現はれ」て、「今見れば貴下は東洋人なり、東洋人は宿めがたし、他處の旅館に行きたまへ」と。そこで「東洋人(にほんじん)」を拒否する理由を問い質すと、「東洋人に宿を借すべからずの規定なり」。無理にでも泊まろうとするなら、当局の許可を得て来いとの返事だった。かくて服部は「此町にも排日の鋒鋩は露はれしか」と途方に暮れるしかなかった。

旅を終わるに当たり、遲塚は改めて社会下層に目を向ける。

「兵隊の亂暴には隨處に出會ひたり、勞役を嫌へる遊惰の民が、自から志願して隊伍に編せられたるものなれば、何等の規律も節制もなく、その素質は苦力より劣れり。平時には日用の物資を徴發して錢を拂はず、戰時にありては〔中略〕掠奪を專らにす、斯る夥伴が武装して�行す、危險千萬といふべき也」。

軍閥の苛斂誅求により人々は困窮するばかり。「それ等窮民は、いつ何ン時、土匪に變化するやも知れず、物騒の事どもなり、些かの油斷もなりがたし」。

乞食を目にしないことはないものの、「支那人は、乞食を一種の職業と見做し、轎夫、苦力の賤しき者にても、剩れる錢あれば之を施す」。

「餓?は到るところにあり、二三人折重つて死せるものあり、群蠅雨の如く集まれども、人見てこれを怪まず」。

――遲塚は中国内陸での旅を、自らが参戦した日清戦争以上に苦しかったと回想する。

たしかに当時の中国社会の、物情騒然として不安で落ち着かない姿がリアルに浮かび上がってくる。だがここで日本人として改めて考えるべきは、成都とその周辺で日常的に見られた「排外の鋒芒」だろう。それが意図的に醸成されたものであれば、尚更に。《QED》


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