――「理屈に拘泥せざる支那人の心境を、余は面白しと感じたり」――遲塚(2/5)遲塚金太郎『新入蜀記』(大阪屋號書店 大正15年)

【知道中国 2036回】                       二〇・二・念四

――「理屈に拘泥せざる支那人の心境を、余は面白しと感じたり」――遲塚(2/5)

遲塚金太郎『新入蜀記』(大阪屋號書店 大正15年)

「流石は東洋の大埠頭、上海の殷賑」を前にしては、「有體に言へば大阪も神戸も東京も横濱」も顔色ナシ。「世界列強の仲間入りをなせる我が日本も、この點だけは恥かしき次第なり」。「さりながら上海の繁華は、居留地の繁華なり、支那全國の富人は、兵革を怖れて、財寶を携へ、妻拏を提げ、安全地帶なる居留地に邸宅を構へて、その生命財産の安固を謀れるなり、亦悲むべきかな」。いわば上海の繁華は列強に蹂躙されたうえでの蜃気楼に過ぎない、という事だろう。

長年の憧れの地であった西湖へ。「晴好雨奇の西湖の景勝」であるはずが目の前に広がる光景は大いに違っていた。「全く幻滅の悲哀を感ぜざるを得ざるを憾むなり」。それというのも、「水は碧落を湛へて鏡のごとく明かなるべしと思ひしに、濁り且淀みて纓をあらふどころか足さへ洗ふに堪へず」。もはや「風致の十の七八を殺ぎた」る惨状だ。木々の枝は「惡少年に攀折せられて見る影もなく」、水面に浮かぶ東屋は「一箇の廢屋に過ぎず」、諸処を飾る「仙人姿の木像俗惡さ」、周囲に配された所縁の「樓閣のけばけばしさ」は限りなく、建物を飾る彫刻は「姿態痴拙を極めたり」。

 「前人の詩に文に、劇賞されたる西湖の名が、その實に較べて雲泥の相違なりしは、頗る東海の游子をして失望せしめた」。これを要するに西湖なんぞは濁った水溜まりに過ぎず、周囲を飾る建物は「俗臭紛々人をして鼻を掩ふて辟易せしむ」ものでしかなかった。聞くと見るとでは大違い。話が違い過ぎる。幻滅の極み、といヤツだろう。

かくして「一體支那の古蹟といふ古蹟は、今や例の軍閥の跋扈から、大抵は荒廢するまゝに放棄して、顧みるものもないのは情けないこと」になる。とはいえ「風流氣のない」俄成金や新興軍閥の「重修で全く凡俗の精舎となつたのも亦淺間しい次第」ではある。

 名庭園の誉を持つ庭園を訪れたが、「誠に見すぼらしきに驚かざるを得なかつた、一體支那人は、園藝には極めて稚拙の國民である、その盆栽を作るにしても、枝を撓め葉を剪りて、全く自然の姿趣を傷づけ、極めて俗惡のものにして了ふのである」。やはり「支那の園藝家に自然を擒ふるの技術の乏しいことを切に思つた」。だが、考えてみれば、その前提として自然そのものに対する考え方、自然の捉え方が違う以上、彼らに日本の園芸家のそれを求める方がムリというもの。ナイモノ強請り、というヤツだ。

 廬山での黄昏時のことである。「家々早やくも燈火を催す、靄のうちにそゝり立つ禮拝堂の鐘樓より、夕の祈?の鐘の音靜かに鳴り渡れば、碧眼金髪の童男童女等、誘ひ合ひて、石の柱に蔦かづらの這ひまつはる�會の門に入る、やがてピアノの音に和して、讃美の歌の聞えたり、今日は日曜日なり」。かくして「支那の廬山に在りながら、身は遠く瑞西(スイス)あたりの山の市に在るかと疑はれたり」と。

廬山辺りに「碧眼金髪の童男童女」だけが住んでいるわけはなく、彼らの両親が居るはず。両親、殊に父親はどんな仕事をしているのか。宣教師だけが一帯に住んでいたとは思えない。「碧眼金髪」の“深謀遠慮”を改めて知る思いだ。

次は湖南省長沙だが、「こゝは湖南唯一の埠頭とて人口十萬を超え、市街も殷賑なり、さりながら、排外の空氣は頗る濃厚にて、左傾學生に使嗾されたる無頼漢ども、賣國奴と彫刻したる大いなる木印を手にして、棧橋際に屯し、武陵丸より下り來る支那船客を捉へて、その背に印を捺すなり」。武陵丸は長江を上下する日本の船会社である日清汽船の所属である。いわば日本船籍の船を利用したから「賣國奴」というわけだ。「支那官憲、我が領事館の抗議に遭へば、嚴に非違を糺彈すべしと口のみ言ひて、しかも彼等が爲すがまゝに放任す」。さて「無頼漢ども」の背後で、若き日の毛沢東は工作していたのだろうか。《QED》


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