――「理屈に拘泥せざる支那人の心境を、余は面白しと感じたり」――遲塚(4/5)遲塚金太郎『新入蜀記』(大阪屋號書店 大正15年)

【知道中国 2038回】                       二〇・二・念八

――「理屈に拘泥せざる支那人の心境を、余は面白しと感じたり」――遲塚(4/5)

遲塚金太郎『新入蜀記』(大阪屋號書店 大正15年)

排日騒動は依然として鎮静化することなく、「物情の安靜ならざる支那に長江沿岸埠頭の我が商民の、翹首して我が軍艦の來泊を待つことは、當に旱時に雲霓を望むに喩ふべし」。じつは「重慶には昨冬より軍艦瀬田ありて我が商民を保護してゐたるが」、新たに軍艦比良が交代すべく長江を遡行してきた。

日章旗を翻した軍艦比良に坐乗するのは、「我が第一遣外艦隊司令官、海軍少將永野修身閣下」であった。永野の最終階級は元帥海軍大將で従二位勲一等功五級。海軍三顕職とされる連合艦隊司令長官(第24代)、海軍大臣(第38代)、軍令部総長(第16代)を経験した唯一の軍人である。敗戦後はA級戦犯容疑で逮捕・収監され、極東軍事法廷での判決を待つことなく、巣鴨プリズンで病死した。

将来を嘱望されていた永野を派遣するほどに、当時の日本政府は逡巡躊躇することなく反日騒動に備え、積極果断に同胞保護に取り組んでいたのだ。

重慶を離れ、さらに内陸の成都へ。

やはり「支那の奥地の旅行にて、旅館が一番我慢出來ずとは聞いてはゐたけれど、その湫陋なるは、想像以上なり」。だが「支那に入りて感服すべきことは道路の良きこと」であった。街道沿いで目にする「農家の生活は、如何にも貧寒を極め、老幼婦女、いづれも乞食よりも更に穢き襤褸を身につけ、食ふや食はずやの有樣なり、そは軍閥の苛斂誅求に逢ひて、苦しみ疲れたる結果なり」。「されば平時は從順なる農民と見ゆれども」、金持ちらしき旅人に出会ったら、「自暴自棄となりたる彼等は、忽ちにして土匪となり、捷路を先まはりして、之を要?し、財貨を掠奪することを辭せざるなり」。これが農民の一面の姿だから「誠に危險千萬なり」。だが問題は彼らを「誠に危險千萬」な振る舞いに駆り立てる社会だ。

道すがら目を転ずれば、「隨處の山河、水隈、うす紫の雲のたなびくを見る」。「これは罌粟圃なり」。山また山の四川には耕地が少ない。当然のように田畑から税を吸い上げるにしても限度がある。そこで軍閥は密かに「罌粟の栽培を奨勵し、どしどし阿片を作らせて課税の増収を圖り、麥圃や野菜圃は、いつしかこの罌粟圃に變り行くなり」。

かくして「村といふ村、町といふ町には、旅館の附近に、烟房と稱する阿片を飲ます家」が必ず軒を並べ、「旅人も、強力も、轎夫の、臥床の上に�たはりて、烟を吸ひつゝ耽睡するなり、淺間しくも亦淺間しき次第なり」。

注目すべきは阿片だけではない。兵隊もまた中国社会が抱える積年の病弊なのだ。

「途中の町、村と、都會、何れも兵隊にて滿員のさまなり、旅館は勿論附近の廟宇をも占領して、盛んに物資を徴發し、夕になれば軍歌を合唱しつゝ遊行す」る。「その�暴、驚くべし、是等の兵隊は、皆苦力となつて働くことを厭へる無頼遊惰の民なり、規律や節制といふものは藥にしたくもなく、木綿の穢れたる制服を無格好に着て、素足に草鞋を穿き、背に洋傘を負ひ赤錆したる銃剱を持つなり」。つまり「眼に一丁字もなき無智、蒙昧の連中が民に臨む」。これが兵隊のありのままの姿だった。であればこそ「宛ながら狂人に刃物なり」。まさに「好人不当兵(まともなヤツは兵隊にならない)」のである。

遲塚はある街で廟会(えんにち)に足を運び、暫しの間、田舎芝居を愉しんだ。

「廟の樓門の上が舞臺にてアセチリン瓦斯の燈火は花のごとし」。数少ない娯楽を求め、近在の農民が立錐の余地がないほどに詰めかけている。「劇は『狂女』といひ、良人遠征し、新婦追慕の情に禁へず、終に火を縱つて焚死するに終る一齣の新劇也」。この芝居から「新しき男女、新しき演劇、支那西陬の農村にも、時の思潮の潜流し來ると思はれたり、悲しむべきか將た慶すべきかを知らざるなり」と感ずる。流石に遲塚、優れたセンスだ。《QED》


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