――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――�田(14)�田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

【知道中国 1959回】                       一九・九・念二

――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――�田(14)

�田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

「はじめての外國行きだものだからすつかり有頂天になつて」いた時から僅かに3年後、「渡政」は基隆で大立ち回りの末に自裁して果てた。それだけに「はじめての外國行き」に際して見せた「有頂天」が微笑ましく、だからこそ余りにも哀しい。

この時の上海で�田は少なからぬ中国共産党員と交流しているが、当時を回想して「いま私の念頭に浮び出してくるのは第一に同志劉少華である」。中国総工会書記で「廿四、五歳の青年であつたと記憶する」。活発で理路整然としていて「その後、あの時代にあつた同志たちが没落したにもかかわらず、彼は現在も中共首腦部の一人として延安で活動していることが報告されている。あの時から異彩をはなつていたのか決して偶然ではなかつたと思う」。劉少奇であろうはずを「同志劉少華」と綴る。単なる記憶違いとも思えないが。

「第二に印象に殘つているのは蘇兆徴である」。「好男子で、そして温順で、親切な男」、「中國革命の中での大ストライキの組織者であり」、「いくたびの大戰亂にさいしての勞働者の組織者」で、「どのような困難にもすこしも動揺せず、これを乘り切つた氣魄と勇氣の持主であつたことに感動する」。「革命運動がいかに人間の性格と行動までも變化させるかを痛感する」と、ベタ褒めだ。そう言うアンタはどうないだい、と半畳を入れたくもなる。

「第三に思い出すのは陳獨秀である」。日本留学経験者であるだけに、上海在住時の「會談のすべては彼が通譯をつとめてくれた」という。

「彼は自分でもよくいつていたが日本人によく似ていた」。北京大学の教授であったが、「樣子は少しも大學�授らしいところはなく勞働者の着る木綿の長い上衣をつけて、勞働者風の鳥打をかぶつたり、また無帽のこともあつた。だからだれが見てもインテリゲンチャだとか、上海でよくみるだらけた金持ちとはまるでちがつていた」。「一九一七年のロシアの大革命を轉機として共産主義義(者?)になり、ついに上海で共産黨を創設するにいたつたのである」。

「普通の状態のときは良い働き手」だが、「いつたん困難な危機に際會した時には、やはりインテリゲンチャとしての弱さ」が出てしまう。共産党員としての任務を怠り、「反革命化した國民黨の上層部に引きずられて勞働者、農民の鬪爭を制限しはじめた」り、「自由を捨てて、まつたく汪兆銘の小ブルジョワ的な政策に屈服した」り、とどのつまり「黨から脱落し」て行った。

ところで上海での工作が順調に進んだことからコミンテルンから派遣されていた「同志ヘラーのまねきに應じて、中國人も、朝鮮人もわれわれも、ソヴエト同盟の同志たちと晩餐をともにすることになたつた」という。女性4、5人を交えて総勢30人ほどで、「みんな隔意なく革命の思い出や各國の情勢や、珍しい習慣などについて話し合つた」。質素な晩餐だったが、「とくに選んだのだろうウォツカが用意されて、その他の酒はでなかつた。これば(は?)ソヴエト同盟の味あう特色とでもいうような感じがした」とのことだが、「食事がすんだころはみんな陽氣になつて、お國自慢の俗謡まで歌い出した」という。

まことにケッコウなことだが、�田ら日本人の唱った「お國自慢の俗謡」はなんだったのか。中山歌子の歌う「船頭小唄」が大流行したのが1923(大正12)年。これを演歌師の鳥取春陽、田辺正行、木津豆千代、高橋銀声などがカバーし、松竹で映画化されてる。

「船頭小唄」が大流行している最中の同年9月に関東大震災が起こり、この年の末に�田らは「第一次共産黨事件の入獄から解放され」、その後に上海に向かっている。

かりに上海でソヴエト同盟や各国の同志を前にウオッカに酔ったトッキュウと渡政が「おれは河原の枯れすすき・・・」と唱っていたら・・・超革命的で面白いのだが。《QED》

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