――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(9)渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正10年)

【知道中国 1897回】                       一九・五・廿

――「民國の衰亡、蓋し謂あるなり」――渡邊(9)

渡邊巳之次郎『老大國の山河 (余と朝鮮及支那)』(金尾文淵堂 大正10年)

 

 北京では、1人で人力車に乗ってみた。「余の宿舎に到るの地理を確かめ」たにもかかわらず、やはり渡邊は「支那俥夫慣用の手段」に引っ掛かってしまった。つまり車夫は「唯客を得るに急なるのみ、其地を知らざるも之を知るといひ、斷じて之を他に問ふが如きことを爲さゞるなり」。

 確か数千年に亘って「至聖」と崇め奉られ続けた孔子サマが垂れていた「知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなす。これ知るなり」という訓えに従うなら、この車夫は渡邊の問い掛けに「知らない」と応ずるべきだった。だが「唯客を得るに急なるのみ」という商法から、孔子サマの訓えに背いてしまった。いや、孔子なんぞをモノサシに彼らの生き方を推し量ろうとする事それ自体が、所詮は無理な話なのだ。

 どうやら「支那俥夫慣用の手段」に則るならば、「知るを知るとなし、知らざるも知るとなす。これ『支那俥夫慣用の手段』なり」となろうか。だが、ここで誤解してはいけない。「支那俥夫慣用の手段」は客の渡邊が日本人だからではなく、同胞に対しても“巧妙”に駆使されるということを。

 だから渡邊は、「必ずしも車夫に欺かれたりといふべからず」と記すことを忘れてはいない。

 北京では名勝旧跡を見物し、何人かの著名人を訪ねている。ある政治家の豪壮な別荘に遊んで「支那政治家の蓄財保身に巧みなる皆此の如きかなど、種々の感想湧起して幾分の不快を感ぜざるを得ざりき」と綴り、日本公使館の招待宴に列しては「公使の支那人の弱點を知るの餘りに深くして、往々之を輕侮するの失あるも、此弱點の爲に却て意の如くならざる結果を得ることあるによるか、在支公使の任務も亦難しといふべし」と記している。

 渡邊の北京滞在で最も興味深いのは、五・四運動の一方の柱である反伝統(孔子打倒・反儒教)を掲げた文化運動の中心たる北京大学で、一連の運動を指導した「胡適、陳獨秀の二�授に面するの機會を得」なかったが、運動の「中心人物の一人たる�授李大�氏を氏の管理せる圖書館に訪ひ、氏の談を聞き、又意見を交換し」たことだろう。

 毛沢東が李大�図書館長の下で司書補として働いていたのは余りにも有名だが、渡邊が訪ねたのは毛沢東が故郷の湖南省に去った翌(1920)年のこと。渡邊の訪問が1年早く、あるいは毛沢東の帰郷が1年遅れていたら、あるいは渡邊は李大�館長の下で働く毛沢東に出会っていたかもしれない。李大�の案内で館内を見学した後、「其整理の行屆けるに驚けり」と記しているが、はたして「其整理」の一端は毛沢東が担ったのだろうか。

 さて肝心の李大�だが、渡邊の筆に従って少しく詳しく綴ってみるのも一興だろう。

 李大�は「頭髪を短く刈り、圓き血色よき顔に天神髯を蓄ひ、�き職業的外衣を纏ひ、一見日本人の如」くに振る舞う。「殊に巧みに日本語を操り、語る所率直にして感情を掩はず、道理を枉げず」、熱く語る。その姿に渡邊は「最も好印象と興快を受け」たとか。

李が「日本の武斷主義を排?し、日本人の對支行動を非難し、『日本人は隨意に支那人を殺す』」と口を開くや、同行の「楢崎氏の之を咎めて隨意の失言なるべきを責むる」。だが「李氏屈せず、熱心切實に日本人の對支態度を排斥する」。これに楢崎が食って掛かり議論はヒートアップするが、渡邊は楢崎を押さえる一方で、文化運動に関する李の主張を聞き質した後に、李の「唱ふる所の結局極端なる社會主義、共産主義、無政府主義に陷り、露國の革命に共鳴するが如くなるを確」めた。かくして「日本も亦漸く支那を解し、支那人に對する侮蔑の態度を去り、平等の主義において自由に公正に親和するの期あるべく、決して侵略と壓迫」とに終始するわけではない、と説いたのだが・・・。《QED》

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