――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(22)上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(22)上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
【知道中国 2004回】                      一九・十二・念三

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(22)

上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

 叙州出立から25日程を経た11月7日、雲南省の省都・昆明に到着し苦難の旅を終える。

 「壓しつける樣な東門の大樓をくぐつて、城内に進み、幾何ならずして日本領事館の前に轎は停つた」。堂々たる構えの「大きな支那風の公館である」。「正館の賓室に導かれ待つ」と、「デツプリと肥えた、如何にも親みのある本田代理領事が出て來られた。『良く無事でありました。さぞ御苦勞でありましたらう』」。やがて夫人や「時吉警部や生田、奥村等の館員諸君も飛んで來られて祝福を申される。實に故郷に歸つた心持ちであつた」。

 昆明での宿は、日本人経営の商社である府上洋行だった。「親切な主人の導きで、二階の洋室に腰を下ろした時は、重慶以來二ケ月の疲勞が、一時に起る思ひがした」。

 昆明在住の日本人は、雲南省最高権力者・唐継堯の顧問である「陸軍大佐(當時中佐)山縣初男氏を初めとし」、領事官員、保田洋行に府上洋行関係者、医師、理髪師、植木師に加え「佛、米、露の各國人の夫人たる人々が六人、合計二十五人である」。彼らは「故國を遠く離れ、殊に交通不便な土地に在る事とて、日常極めて親密に往來して居る」。

 「既に十數年(途中一時歸朝服務された事もあるが)、雲南に顧問たる人で、日本人として雲南を訪ふ者は、氏の厄介にならぬ者は無い」とされる山縣は、日本の士官学校に学んだ唐継堯に招請されて昆明に滞在し、省政府の財政・軍事などにつき相談に与かっていた。

じつは大正初年頃から末年までのことだが、昆明滞在の日本人は100名を超え、日本から大工や左官を呼び日本流の座敷を作り、省政府高官の邸内には桜が植えられていた。さらには昆明湖には日本製モーターボートが浮かんでいたというから、日本との関係も深かったわけだ。

 保田、府上の両洋行関係者について「雲南に古い人である。あらゆる困難と戰ひ抜いて、日本商品を雲南人に紹介して居られる努力は、多とせねばならぬ」と紹介している。それにしても気になるのが「佛、米、露の各國人の夫人たる人々が六人」である。彼女らは、どのような経緯で異国の夫に伴われ昆明にやって来たのか。そもそも彼女らの夫たちは、昆明で何をしていたのか。疑問は次々に起こる。

 上塚は「四川雲南間を踏破した日本人は極めて稀である。其の稀な人々の多くが、途中で何かの被害に遭つて居る。それに、自分が、極めて無事に雲南省城に辿り着いた事は、在留同胞の諸君が、心から喜んでくれた所である」。歓迎会として「在留同胞の多數が昆明湖に舟を泛べ、西山に登つて、一日の宴遊を恣にした」とのことだが、その「舟」は果して日本から持ち込まれたモーターボートだったのか。

 ところで「四川雲南間を踏破した日本人は極めて稀」とするが、上塚が旅した大正8(1919)年より12年ほど早い明治40(1907)年に雲南省を踏査した日本人がいた。橿原神宮、平安神宮、明治神宮、朝鮮神宮、靖国神社神門、築地本願寺などを設計した建築家の伊東忠太(慶応3=1867年~昭和29=1954年)である。

 じつは『揚子江を中心として』は昆明着で終わり、以後は「列國覇權夢の跡」と題する長江流域に於ける列強による鉄道利権競争の分析となる。そこで、参考までに伊東の旅を追うことで、雲南省、つまり中国西南辺境に当時の日本人がどのように関心を示したいたのかを素描しておくことも、「列國覇權夢の跡」の理解の一助となろうか。

日露戦争勝利から2年後の明治40(1907)年の秋から冬にかけて、伊東は貴州省の省都・貴陽から雲南を抜け、さらに緬甸(ビルマ)北部までを歩いている。主たる目的は中国西南に残る寺廟、仏塔などの旧い建築物の調査だったが、旅の先々で出会った日本人について、「支那旅行談」(『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)に書き残していた。《QED》

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