――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(9)上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

【知道中国 1991回】                      一九・十一・念七

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(9)

上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

 じつはイザベラ・バードのみならず江戸末期から明治初年にかけた頃に来日した西洋人の多くが清潔さを日本家屋の特色として上げている一方で、「畳が蚤の大群の巣」となっていることも指摘している。日本各地の旅行前に横浜の英国領事館を訪ねたイザベラ・バードに向かって代理領事が、「日本旅行の大きな障害は、蚤の大群と乗る馬の貧弱なこと」と忠告している。

 南京蟲(中国)VS蚤(日本)・・・なにやら虫にも文化の違いが現れるということか。

 「爪先上りの山路を只夢中に幾支里かを歩いた。只進む、無闇と進んだ」その時、「『人』とか『我』とか云ふ感覺さへある事を疑はしめる。歩くので無い、走るのだ」。

ひたすら歩いた旅の先に待っていたのは、景徳鎮、饒州、?陽湖、廬山などの景勝地を回る「江西東部舟行」だった。

次は、北京で五・四運動が起こった20日ほど後の大正8(1919)年5月26日に江西省九江を発して北に向かい、湖南省を経て湖北省漢口までの鉄路、水路、陸路の旅である。なお漢口着は7月5日というから、五・四運動勃発から2カ月後ということになる。

「此の行費す所の日子僅に六旬に滿たずと雖も、往く所は三省に跨り、道程實に三千支里、而して時は正に排日運動勃發の當初に屬し、至る所支那人の白眼に遇せらる」。

「支那人の白眼」を身に浴びての旅行である。これに暑気が加わった。「赫雲の下、熱砂の上、幾度か天涯孤客の慘苦を味ひたりけむ」というから、よほど心細かったのだろう。さらに「此の間、偶、余が暴徒に弑さらるゝの報傳はり、親戚、故舊を驚かしたる事一再ならず」。そこで善後策に「時の外相内田康哉伯並に盟友柴田�次郎兄」が奔走し、事なきをえた。そのことを長沙到着後に知る。

旅の2日目は南昌だった。見学した囚人工場の第一監獄分廠は「毛巾廠、竹工場、縫工場、木工場、漆工場等に分」かれていて、「兩人づゝ鐵鎖にて繋がれたる囚人等は、極めて靜肅に作業しつゝあり、獄室、病室、浴室等何れも掃除行届き、普通支那人の日常生活に比し遥かに清潔なり」。やはりシャバでの生活は凄まじいまでの汚さということだろう。

6月6日には「たゞならぬ氣合にて村人の駈け走るを見る」。村火事だった。河に沿って並ぶ10数軒の農家の「中央の家より�烟濛々として燃え上れり」。だが消火設備はないから、「村人は火を見て唯狼狽するのみ」。「火炎は�々猛り狂」い、あっという間に火は隣家に移る。このままでは一列の家が全焼しかねない。そこで「村人は意を決し未だ火の移らざる家に全力を集中して之を破壞し始めた」。

この姿を見て上塚は、「嗚呼、無智と貧困とは、容易に避け得べき危險すら避くるを得ず」して、泣き寝入りするしかない。「此の如くして支那四億の民が受くる禍は幾何なるぞ」。まさに永山則夫とは違った意味で「無知の涙」といったところか。

その日は船中で夕食を済ませ再上陸し、村の廟(やしろ)での廟会(えんにち)に出掛けた。農村では娯楽の機会は極端に少ない。楽しみと言えば、1年のうちの数日だけ開かれる廟会しかない。この日だけは一種の無礼講となる。「幾組かの賭場は開帳せられ、所狹き迄に相並びたる滿頭、飽〓(食+子)、?等の屋台店よりは湯氣蒸々として上」っていた。

近郷近在から群れ集う老若男女は廟会最大のハイライトである村芝居に熱狂し、日頃の憂さを一気に晴らす。本来が酬神戯(奉納芝居)だから、当然のように正客はご本尊サマ。人間サマは陪席というわけだから、当然のように立ち見扱いだ。

観客は舞台を「取巻きて立ち乍ら仰ぎ見る」。だが上塚は「匆々に船に還」ってしまった。それというのも、屋台から立ち上る「惡臭到底長く居る可からず」だったからだ。《QED》

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