佐渡島出身の山本悌二郎(やまもと・ていじろう)は明治から昭和初期にかけて活躍した農林大臣などをつとめた政治家であり、台湾製糖の専務・社長として台湾糖業の発展と黄金時代を支えた実業家でもあった。
平野久美子さんの『台湾に水の奇跡を呼んだ男 鳥居信平』で知られるようになった鳥居信平(とりい・のぶへい)は、伏流水を利用した地下ダムを設置することで屏東の枯れた大地を豊かなサトウキビ農地に変えた技術者で、当時の台湾製糖専務だった山本悌二郎に招かれている。鳥居信平は、山本悌二郎の雅号「二峰」からこの地下ダムを二峰[土川]と命名した。
山本悌二郎は、いまや世界的な港湾となった高雄市の港湾建設と「哈瑪星」という現代化された都市を実現したことでも現地の評価は高く、高雄市の名士たちは著名な彫刻家の黄土水に依頼してその胸像を制作し、1929年2月に山本氏が計画して建設した「橋仔頭糖廠」内に設置したという。しかし、戦後になるとこの胸像は日本に送られ、山本のふるさとである佐渡市の真野公園に移設されていた。
謝長廷・台北駐日経済文化代表処代表などの仲介により、この胸像が今年8月に佐渡市から高雄市に里帰りした。12月17日、そのレプリカが胸像の置かれていた台湾糖業高雄糖廠の社宅事務所に設置され、高雄市の陳其邁市長と佐渡市の渡辺竜五市長が除幕式を行ったという。
また、山本悌二郎の胸像は高雄市立美術館によって修復されてから同美術館に保存され、レプリカが佐渡市の真野公園と高雄市の橋頭糖廠社宅事務所に設置され、国立台湾美術館で収蔵されるそうだ。
このご縁により、謝長廷代表が佐渡市を訪問していた7月27日に、佐渡市と高雄市が「友好交流覚書」を締結している。
高雄には、安倍晋三・元総理の国葬直前の今年9月24日に銅像が紅毛港保安堂に建立されている。また、飯田豊二が設計した高屏旧鉄橋(下淡水渓鉄橋)や旗津区には故許昭栄氏が設けた「戦争與和平紀念公園(戦争と平和記念公園)」もある。
今年は安倍元総理の銅像と山本悌二郎の胸像も加わり、日本人にはいっそう馴染みやすいところとなったようだ。 —————————————————————————————–日本統治時代、高雄で糖業発展させた山本悌二郎氏の銅像が「橋仔頭糖廠」に帰還【台湾週報:2022年12月20日】https://www.taiwanembassy.org/jp_ja/post/89782.html
台湾南部・高雄市と日本の新潟県佐渡市の縁を結ぶ山本悌二郎氏の銅像が100年の時を越えて台湾糖業高雄糖廠(旧称:橋仔頭糖廠)にある古跡「社宅事務所」に「帰還」した。高雄市の陳其邁市長と佐渡市の渡辺竜五市長が17日、共同で銅像の除幕を行い、謝長廷駐日代表、文化部(日本の省レベル)の蕭宗煌政務次長(副大臣)、台湾糖業公司の陳昭義董事長(=会長)らが立ち会った。陳高雄市長は高雄市民を代表し、銅像が元の場所に戻れるよう力を尽くし、台日間の本当の友情とその確実な進化を示してくれた各方の人々に感謝した。
山本悌二郎氏は台湾における新たな糖業の基礎を築いた。台湾糖業の発展と黄金時代を支えたばかりでなく、1900年から1927年までの間に高雄市の「糖業帝国」をゼロから築き、高雄における港湾建設と「哈瑪星」という現代化された都市を実現した。高雄市の現代化を推し進めた重要な人物だった。山本氏が日本に戻ると高雄市の名士たちは近代の台湾における最高の彫刻家、黄土水に依頼してその胸像を制作、1929年に、山本氏が計画して建設した「橋仔頭糖廠」内に設置した。しかし戦後になるとこの銅像は日本に送られ、山本氏のふるさとである佐渡市の真野公園に置かれることとなった。
「社宅事務所」は高雄糖廠建設の起点であり、山本氏が二十数年にわたって勤務した事務所でもある。台北駐日経済文化代表処の謝長廷代表と佐渡市でダンススタジオを主宰する台湾出身の舞踏家、若林素子女史の仲介の下、陳高雄市長が渡辺佐渡市長に直接書簡で銅像を迎え入れたいという意向を伝えた。その結果、高雄市は今年8月に銅像を受け取り、レプリカを制作して今回、1929年に初めてこの銅像が置かれた場所に60年以上ぶりに設置。この日は多くの関係者が銅像の置かれた「社宅事務所」の前で記念撮影を行い、歴史的な場面を写真に収めた。
高雄市文化局によると、この100年にわたる縁を記念するため国立歴史博物館では書籍「山本悌二郎の築いた糖業新時代」を出版するほか、関連の特別展を開く。「社宅事務所」を会場に17日より6月30日まで開催し、「100年以上の文化の帰還」という重大な意義を示すほか、高雄市の糖業に対する山本氏の功績を改めて紹介する。
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