【台湾紀行】六亀特別警備道(再録)

【台湾紀行】六亀特別警備道(再録)
令和4年3月20日
西 豊穣

 高雄市と屏東県の三区三郷に跨る総延長60キロ以上に及ぶ六亀特別警備道は、日本時代の台湾原住民管制のための所謂(いわゆる)「理蕃道」がベースの古道の中でも、その規模と残存状況が最も秀逸であると筆者が考えているものである。ただし、国家歩道としての整備は、藤枝国家森林遊楽区内を除いては、全く手が付いていない。既に開鑿から百余年が経過した。
中央山脈主脈西側に開鑿されたため、伝統的に登山道として利用された区間を除いては、熱帯の樹木に埋もれ今でもアクセス、歩行は不便である。それでも国立台湾大学登山社(山岳部)を魁(さきがけ)として、平均約一キロ間隔で設置されていった警察官吏駐在所遺構は順次踏査され、全貌が明らかになりつつある。

 ここ数年の武漢肺炎禍の影響で、この古道に入り込むハイカーも増え、特に若い世代による踏査記録の公開が多くなり出した。警備道全線を大きく二つに分け、各々北段、南段という表現が出始めたのも最近の変化だ。これらの踏査記録で提供されるGPS座標を簡便に取得、利用できる環境は主に二つの恩恵を齎(もたら)していると思う。一つは無論、安全性の面において、二つ目は、人が入り込み経(みち)ができなければ、これらの文化遺産としての遺構は生命力旺盛な熱帯の草木に容易に蚕食、破壊されてしまという意味において。

 今回は先ず筆者が2006年に投稿した記事を再録して、日本人には耳慣れないこの古道を、新しい『台湾の声』読者に紹介したいと思う。次回は、筆者自身、最近になり、八八水災(モーラコット台風、平成21年台風第8号)以来ひさびさに踏査する機会に恵まれたので、補遺という形で補足したい。

 再録に当たっては、当時敬体で投稿した記事を常体に書き換えた上で、句読点等を追加し読み易くした。さらに、明らかな誤記は削除を含む修正を加えた。また、記事中の行政区画名は当時のままとした。
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【台湾紀行】台湾古道シリーズ―六亀特別警備道(扇平古道)
平成18年7月6日         

 六亀特別警備道は、いわば台湾版東海道五十三次である。山歩きが好きな人でも耳慣れないこの古道は、高雄県・屏東県の二県六郷(桃源郷、六亀郷[ラクリイ/ラックゥ]、茂林郷、三地門郷[スティムル/サンティムン]、霧台郷、瑪家郷[マカザヤザ])に跨る南北に長い広大な茂林国家風景区(新註1)の北東に位置する。

 茂林風景区はその名が示す通り、最初は茂林地区が風景区として指定されその後周辺地区を包含させていったものだ。その北端は玉山国家公園の最南部に連なっている。玉山群峰を源頭とする[艸/老]濃渓がこの風景区のほぼ中央を流れ、岩と水、山と渓谷が様々に交錯する一大公園の趣きがある。[艸/老]濃渓はこの風景区を抜けると、高雄県と屏東県の境を流れる高屏渓と合流、南下して今ではマグロ(鮪)水揚げのメッカとしてすっかり有名なった屏東県東港から台湾海峡に流れ込んでいる。

 桃源のブヌン族とツォウ族、茂林と霧台のルカイ族、三地門と瑪家のパイワン族という凡その居住分布が示すように、台湾原住民族文化が非常に豊かな地域で、それもこの風景区の大きな魅力の一つになっている。また、この風景区の北側半分、即ち桃源郷、六亀郷、茂林郷は温泉の宝庫、合計十二箇所を数える。その内、温泉街が形成されている宝来と不老(いずれも六亀郷)を除いては文字通り秘湯であり、その多くが一般の車でのアクセスは不便だ。

 現在台湾で古道と呼ばれるその多くは、日本時代における最終形態が原住民に対する警備道(「理蕃道」)だったのだが、内政部林務局が現在指定している国家歩道の中で「警備道」の名前で呼ばれているのはこの古道のみだ。しかもわざわざ「特別」の名が冠されているが、その理由については林務局の資料には明解な説明がない。

 原住民管制のための警備道の通常の形成は、原住民の生活道・婚姻道、及び清代の「開山撫番」(山を開き蕃人=原住民を撫ぜる)道を警備道として整備、編入していった過程がある。六亀警備道の場合、最初から隘勇線(あいゆうせん)を張り巡らし警備道化していったという特殊な経緯があったので、「特別」と呼称するのかもしれない。
隘勇線とは、清代の開山撫番下に於ける平地人と原住民の居住区を区別するための隘(勇)制を引き継いだもので、日本時代は原住民に対する包囲線・封鎖線へと変遷していった。物理的には山中百五十メートル幅で草木を払い、道路を通し鉄線を張り巡らし、さらにその鉄線に電流を流し原住民の「隔離」を図ったものだ。日本時代の隘勇線の総延長は五百キロ弱に及んだそうだ。
第五代台湾総督佐久間左馬太により実施された「五箇年計画理蕃事業」(明治四十三年、1910年発動)において、隘勇線の永久道路化が五年目の目標として掲げられていた。実際、理蕃事業とは、樟脳に代表される森林資源を利用した殖産興業の推進を阻害するものの徹底排除というのが、その基本性格だったと謂われる。

 六亀警備道は、現在の南部横貫公路(通称「南横」、“省”道20号線)(新註2)のベースになった関山越嶺警備道と、その南側に開鑿された内本鹿越嶺警備道と共に、中央山脈を境に東西からのブヌン族に対する大包囲網の西側の一部を形成していた。さらに、この大包囲網の北側に位置する八通関越嶺警備道と併せ、ブヌン族を南北から挟撃するという地理的な位置にもあった。これらの警備道は一方ではブヌン族を山奥深く追い上げると共に、他方では各地のブヌン族に対する強制廃村・移住を強制するために機能することになる。

 六亀警備道は関山、内本鹿、八通関よりも早く警備道として整備され、台湾南部では最も初期に開鑿された。五箇年計画理蕃事業は最初に台湾北部の警備道整備を謳っており、四年目以降に南部・東部の東西横断警備道の整備に移行する計画になっていたのだが、この南部・東部計画の最初に着工されたのが六亀警備道だ。

 六亀警備道の北端は高雄県桃源郷桃源村(日本時代はガニ社)、南端が同県六亀郷大津村、その間[艸/老]濃渓の東側山塊の標高千五百メートル前後の稜線上に開鑿され、全長六十余キロ、この間実に六十箇所に近い駐在所を設置、これらの駐在所に北から順番に東海道の宿場町の名を冠し、六亀、美濃一帯で樟脳取りに従事する平地住民を原住民の「出草」(首狩り)から守るという名目で強権を発動させたものだ。

 六亀警備道上に実際設置された駐在所の数は58箇所である。北側起点の日本橋を含む以下大津までの54箇所の分遣所と、その間に4箇所の監督所・警戒所が設けられた。ただし、なぜか「三条大橋分遣所」は存在しない。これら三種の警察機能は後に警察官吏駐在所として統合される。60余キロに約60箇所、つまり、各駐在所の設置間隔は1キロ前後という密集ぶりも、この警備道の一大特徴である。また、この警備道は基本的には山々の稜線伝いに開鑿されているが、南北を最短距離で繋ごうと目論んだからと謂われている。警備道開鑿のための資材コストの節約も考慮されたのかもしれない。

 筆者の手元の市販地図上にも当時の名残りが山名等として散見される。すなわち、小田原(山)、藤枝(山、林道、森林遊楽区)、見付(山)、吉田(山)、御油(山)、鳴海(山)等々。上述の大津村はずばり第53宿だ。

 それでは、実際日本橋駐在所が存在した証拠として当時の地図上に記載があるかどうか確認してみた。警備道北側起点の桃源村を訪ね、当地の警察署、消防署、林務局の方々に聞いてみたが、誰も知る者がないという状況だったからだ。すると、台湾総督府警務局出版の『臺灣全圖』(30万分の1)(新註3)上に「日本橋」の表記を見付けた。ただし、その縮尺だと、桃源市街地の[艸/老]濃渓を隔てて対岸のどこかということぐらいしか分からず、とても跡地の特定はできそうにない。

 第53宿大津も『臺灣全圖』に表記があり、加えて、現在は六亀郷に加え、濁口渓を隔てて対岸の屏東県高樹郷の行政区画名にもなっている。大津駐在所の跡地の踏査についても事情は日本橋と同じで、筆者なりに当たりは付けているのだが、まだ特定できていない。

 嘗ての警備道の一部分は林道、産業道路、農道として今でも利用されているが、それらの沿線で当時の面影を探すのは既に非常に困難だ。谷側、あるいは山側を注意深く観察すると、当時作られた石塁が僅かに残っているのを観察できるといった程度である。その他の部分は、古道を専門に研究している人を伴わずに一般のハイカーとして辿るのは多分無理だろうと随分長い間考えていた。

 或る日台湾ネット上で公開されている山行記録を渉猟していると、「鳴海三山」と呼ばれている中級山三座の山行記録が十数枚の写真と共に公開されており、それらの写真の中に筆者がこれまで見たこともなかったような、登山道沿いの大規模な石塁が撮影されたものがあった。鳴海三山とは、北から鳴海山(標高1,410メートル:台湾小百岳の一座)、網子山(同1,378メートル)、真我山(同1,063メートル)のことで、その後網子山が市販地図帳上で括弧付きで四日市となっているのに気付いた。ハイカーにはよく登られている鳴海三山の頂上を結ぶ登山道が、実際は往時の六亀警備道そのものであることに漸く合点がいった。

 実際そこを歩いてみると、駐在所跡地を囲む残存状況の良い石塁と各駐在所を繋ぐ警備道の路肩を補強する石垣が間歇的に現れる。この区間は東海道五十三次に充てると、北から順番に、鳴海(第40宿)、宮、桑名、四日市、石薬師、庄野、亀山、関(第47宿)に相当するはずだが、残存状況はばらついているので、全ての跡地を明確に特定するには難がある。台湾の他の地区の古道としての警備道上の遺構が、草木の中に埋もれ痕跡が覆い隠されていくなかで、少なくもこの三山の稜線上の遺構の多くは、強制的に撤去されない限り半永久的に残存し得る規模を持っている。

 六亀警備道沿線に現在二つの自然生態公園が一般に開放されている。藤枝国家森林遊楽区と扇平森林生態科学園(旧林務局扇平林業試験場)である。共に林務局の管理下にあり、茂林国家風景区の中に含まれている。この二つの公園の前身は、日本時代、6万ヘクタールに及んだ京都帝国大学の演習林の一部だったものだ。当時の台湾には旧京都大学以外に東京大学(当時の新高郡・竹山郡)、北海道大学(同能高郡埔里)、九州大学(同台北州文山郡)が演習林を台湾総督府から払い下げられており、京都大学の演習林面積が一番広大だった。

 藤枝はその名の通り第22宿名を冠したもので、園内に府中(第19宿)、鞠子、岡部の駐在所遺構が保存されている。入園に際し予約等の手続きは必要ないが、扇平科学園の方は入山証の取得に加え、予め予約する必要がある。後者は実は上述の鳴海三山へのアクセスに最も便利な位置にある。同公園上方には今は測候所として利用されている第39宿、池鯉鮒駐在所遺構がある。両園とも深山の中なのでアクセスに使われる林道が台風の被害を受け易く、度々閉園に追い込まれるのが難点だ。

 鳴海三山の稜線と、鳴海山の北に位置する科学園を結ぶ登山道を今では扇平古道と称する場合があり、通しで十キロにも満たず四時間ぐらいで歩き通せる。加えて、伝統的な登山口(新註4)の標高が既に千メートル程あり、三山の標高が千五百メートルにも満たないので起伏が小さく、登山道たる警備道はよく踏み歩かれ、沿線の樹相も美しく日帰りハイキングには最適な場が提供されている。この扇平古道が狭義の古道としての六亀警備道であり、今現在最も人口に膾炙したコースになっている。

 当時、原住民を包囲するとは、山奥深く追い上げ締め上げるということだったのだが、六亀警備道のごく一部には過ぎないとはいえ、鳴海三山の稜線から[艸/老]濃渓を見下ろし、また逆に[艸/老]濃渓沿いにこれらの山の稜線を見上げる時、当時の包囲線網=隘勇線が持つ原住民に対する台湾総督府の理蕃事業の過酷さの一端が透けて見える。警備道上には所々木の枝に引っ掛かっている電線や樹木にめり込んだ碍子(がいし)が残っているらしいが、筆者はまだ目にしたことがない。

 最後に、参考図書を一冊紹介させていただきたい。筆者がこれまで『台湾の声』紙上で紹介したものを含む代表的な台湾古道も抱合した台湾山脈の写真集が今年出版された。『台湾山林空中散歩』(陳敏明撮影、2006年2月初版、遠流出版、2,400元)だ。質の高い航空俯瞰写真で構成されているユニークさに加え、地図・年表等をふんだんに盛り込み編集に工夫が凝らされており、現在台湾で市販されている台湾古道・地理・山岳関係の書籍では非常にレベルの高い出来栄(できばえ)になっているのではないかと思う。特に台湾の地理と地形に興味のある方には座右の銘となるべき一冊と言えるかもしれない。実は普及版(『鳥瞰台湾山‐台湾五大山脈空中巡遊』、2005年12月初版、450元)の方が先に出版されており、豪華版、普及版の二種類が供されているのも特徴だ。(終り)

(新註1)高雄市茂林区の原形は、ルカイ族の北からマンタウラン(萬斗籠)社、マガ(芒仔)社、トナ([土敦]仔)社の居住範囲。戦後初期の行政区画は多納(トナ)郷、1956年に台湾省造林コンテストに優勝したのを切っ掛けに茂林に改名。
(出典)https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%82%E6%9E%97%E5%8D%80

(新註2)現在は「台20線」と呼称され、「省道」の表記は廃されている。

(新註3)筆者が確認した『臺灣全圖』は改訂第三版、昭和9年6月発行のもの。
(出典)http://gissrv4.sinica.edu.tw/gis/error.php?aspxerrorpath=/gis/Default.aspx

(新註4)八八水災以降、この登山口に至る農道が崩壊、封鎖されており今現在は使えない。


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