――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港47)

【知道中国 2165回】                      二〇・十一・丗

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港47)

 

中国系の映画館で最も印象に残るのが新亜研究所から少し歩いた土瓜湾にあった珠江戯院である。それと言うのも、全国民を文革に煽り立てる旗振り役を担った革命現代京劇の最後の作品である『杜鵑山』の映画版を見たのが、ここだったからだ。

例によって事前宣伝は凄まじく、中国系紙面には相変わらず「連日満座」「爆座」と勇ましい文字が躍っていたが、客は1人か2人。冗談抜きに“貸し切り状態”の広い館内でユックリと映画を堪能させてもらった。帰り際に切符売り場の人に頼んで手に入れた新聞紙見開き2頁大のポスターは額に入れ、半世紀ほどが経った今でも大事に机辺に掛けてある。

珠江戯院を背にして立ち、道路を隔てた斜め左隣にあった中国系書籍専門の南方書店には、少なくとも1週間に最低3回ほどは通った。それというのも、昼飯の豆腐飯を食べに行くには南方書店の前を通らなければならなかったからだ。そこで、昼食が終わって研究所に戻る際には必ず立ち寄ることになる。

店内に入ると真正面の壁に毛沢東語録の一節が大きく書かれ、その真上の壁の天井際には毛沢東のバカでかい顔写真が店に入った客を睥睨するかのように掛けてあった。こぢんまりしていた店内だが、書棚も平台も文革関連書籍に溢れ返っていた。

 当時、中国の新刊書は珍しい上に安かったから、店を覗いて目に着いたものは文字通り片っ端から買った。もちろん全てが毛沢東思想を讃え、文革の成果を誇る内容だ。いま、そのうちの極く一部の書名を上げておきたい。

『紅山島』(寧軍 上海人民出版社 1970年)、『永遠緊握手中槍』(上海人民出版社 1970年)、『向優秀的共産党員学習』(上海人民出版社 1970年)、『我們是毛主席的紅小兵』(上海人民出版社 1970年)、『千歌万曲献給党』(上海人民出版社 1971年)、『“模範共青団員”胡業桃』(上海人民出版社 1971年)、『看図認字』(上海人民出版社 1971年)、『向陽紅花』(上海人民出版社 1971年)、『造船工人志木気高』(上海人民出版社 1971年)、『“模範共青団員”胡業桃』(上海人民出版社 1971年)、『看図認字』(上海人民出版社 1971年)、『罪悪的収租院』(上海人民出版社 1971年)、『列寧在十月』(上海人民出版社 1971年)、『雄鷹征途煉紅心』(上海人民出版社 1971年)など。

ともかくもテーマは毛沢東思想万歳で一貫不惑。変わったところでは針麻酔に関する医学書の『針刺麻酔』(《針刺麻酔》編写小組 上海人民出版社 1972年)、ソロバンの教本である『怎様打算盤』(上海人民出版社 1973年)、マッサージ療法を独習者用に解説した『保健按摩』(谷岱峰編著 人民体育出版社 1974年)、上海固有のスイーツのレシピ本である『上海糕点制法』(上海市糖業酒公司 1974年)など。

 ほんの僅かの出版物を上げただけでも、その大半が上海人民出版社から出版されていることに気づかされるだろう。上海は四人組が拠点を置いた都市であり、その上海にあって全国に向けた強力な宣伝活動を展開していたのが上海人民出版社だったことを考えると、当時の香港における中国メディアは四人組の系列に属していたようにも思われる。

いま改めて半世紀前に買い込んだ文革当時の出版物を整理しているが、ざっと数えただけでも500冊超。よくもまあ買い込んだものだ。勇ましく楽しいイラストがいっぱいの20頁にも満たない絵本や十数冊がセットになった叢書から400頁超の毛沢東思想・哲学の研究書までを、このまま“積読”というのも芸のないこと。改めて読み解き、文革という狂乱に反映された中国人の振る舞いのバカバカしき習性を解き明かしたいと目論むのだが。

思い起こせば南方書店や珠江戯院に一歩足を踏み入れると空気は一変し、そこは恰も無観客の“文革ワンダーランド”であった。70年代の香港での文革は中国系の機関や施設の中に閉じ込められるしかなく、街頭に飛び出すことなどできなかった・・・らしい。《QED》


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