――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港1)

【知道中国 2119回】                       二〇・八・仲九

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港1)

 橘は大正期で切り上げ、次は北一輝の『支那革命外史』に転ずる。これが当初の腹積もりだった。だが武漢国民政府崩壊まで進んで来ると、このまま読み続けるのもアリかと考えるようになった。それと言うのも、これ以後の中国は国共両党の再編を経て国共激突に移り、やがて満州事変(1931年)、上海事変(1932年)、満洲国建国(1932年)、盧溝橋事件(=支那事変/1937年)と続く激動の中で、再び国共両党が合作し抗日戦争体制へと移る。中国には?介石・国民党(重慶)、毛沢東・共産党(延安)、汪精衛・国民党(南京)に加え、以上の三者のいずれにも与しない政治勢力が生まれては消え、激動は1945年8月15日で終止符を打たれることなく、1949年10月1日まで続くことになる。もっとも、その日を境に中国人に平穏な日々がもたらされたというわけではないが。

 こう見てくると、当初の目論見に従って橘を中途で終わって北一輝に移るより、このまま“元祖チャイナ・ウォッチャー”たる橘の仕事を追い続けるのも一興かと考えるようになった。それというのも橘が見せた紆余曲折・千変万化する中国情勢との格闘を通じて、日本における中国認識の変化を捉えることが出来ると考えたからだ。

 そうと決まったらグズグズしてはいられない。とは言うものの、急いては事を仕損じるとの教えもある。やはり些かの“仕込み”が必要だろう。なにせ中国・台湾側の研究も進む一方、日本でも最近では『対日協力者の政治構想  日中戦争とその前後』(関智英 名古屋大学出版会 2019年)など一読驚嘆の研究も現れて来たことだから。

 ここで突然だが、20世紀初頭の孫文と宮崎滔天を始めとする日本側支援者の関係を思い出した。孫文は日本側支援者の動きが短兵急に過ぎ、慎重さを欠いていると批判する。これに対し滔天らは一気呵成こそが最善策と考える。最善策のみならず次善策、その次善策の次善策。二枚腰から三枚腰、いやn枚腰で清朝打倒と言う最終目的達成に向けて画策する孫文の目には、「焦りはすべてを水泡に帰させてしまう」と映ったに違いない。

 宮崎滔天自らが説くように「一気呵成の業は我人民の得意ならんなれども、〔中略〕急がず、噪がず、子ツツリ子ツツリ遣て除ける支那人の氣根には中々及ぶ可からず」(「暹羅に於ける支那人」『宮崎滔天全集(第五巻)』(平凡社 昭和52年)ということだ。

 そこで「一気呵成の業」に突き進むのではなく、ここで少しく方向転換し別の角度から「急がず、噪がず、子ツツリ子ツツリ」と「支那人の氣根」を考えて見ることにしたい。じつは「支那人の氣根」のナゾを解くことが、我が長年のテーマでもある。

 ――初めて香港を体験したのは、今から半世紀前の1970(昭和45)年の秋だった。以来、殖民地時代のHong Kong生活を、5年ほどの時間をかけて「急がず、噪がず、子ツツリ子ツツリ」と満喫させてもらった。すべては「香港で学んだ」と言っておこうか。

当時の香港はイギリス人総督に率いられた政庁の下で、政治的自由に一定の制限はあったものの言論の自由は保障されていたし、なによりも経済はレッセフェールと呼ばれた自由放任体制によって繁栄し、それなりに落着いた日々を送っていた。多くの人々は中国を嫌って香港に移り住んでいたが、だからといって街中に現在のように激烈な反中・嫌中の雰囲気は感じられなかった。

その香港も昨年来の混乱が物語るように、今や米中激突の戦場と化した。往時を振り返れば、やはり寂しくもあり悲しくもある。一般香港住民にとっては“愁嘆場”と言えるような現在の香港を包むとげとげしく、ささくれ立ち、ざわつき、いたたまれないような雰囲気からすれば、往時の長閑さの片鱗なり求めるのは、ないものねだりというものだろう。

 そこで橘小休止を機に、往時の香港での体験を振り返りながら、現在の香港を考えてみたい。どれほど続くかは未定だが、先ずは時計の針を1970年秋に戻してみたい。《QED


投稿日

カテゴリー:

投稿者: