――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘74)「國民黨の再分裂」(昭和2年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房)

【知道中国 2114回】                       二〇・八・初九

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘74)

「國民黨の再分裂」(昭和2年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房) 

改めて言っておくが、橘が一連の共産党関連論文を執筆した大正末年から昭和初年における中国の政治状況は変転極まりなく、内外の政治的思惑が奇妙なまでに絡み、縺れ合い、まさに一瞬先は闇そのものだった。誰が敵で、誰が味方なのか。同じ党内においても敵も味方も混然として判然としない。

中国を囲繞する内外状況は日替わり状態で変化するわけだから、橘の論文の字面を追うだけでも、やはり時代背景を押さえておく必要がある。そこで「國民黨の再分裂」が書かれる前後の動きを、必要最小限の範囲で整理しておく必要がありそうだ。

やはり混乱の根源には、孫文の代名詞である三民主義と晩年に踏み切った連ソ容共の方針が潜んでいるように思う。たとえば三民主義にしても、資本主義から社会主義を経て共産主義まで許容してしまう。鵺のような考えだ。極論するなら清朝打倒を目指す民族主義は理解できるが、民主主義であれ民生主義であれ、どのようにでも解釈可能だ。総花的で実態が曖昧模糊としている。連ソ容共に至っては、クソミソ一緒で支離滅裂。

であればこそ、孫文死後の国民党が左右両派に分かれたとしても不思議でもなんでもない。誤解を恐れずに言うなら、孫文の曖昧さが?介石と汪兆銘の路線上の齟齬を招き、これに宋美齢(?介石夫人)と陳碧君(汪兆銘夫人)の感情的対立が重なって、やがて汪兆銘の悲劇的な末路に繋がったのではないか。それは毛沢東が示した劉少奇の政治路線に対する拒否感情を、江青(毛沢東夫人)による王光美(劉少奇夫人)に対する嫉妬・嫌悪感が増幅させたであろうことにも似ている。宋美齢、陳碧君、江青、王光美――彼女らは、外柔内剛でなければ外剛内剛。ともかくも共通するのは気の強さだ。

閑話休題。

当時、武漢に置かれていた国共が合作した国民政府にとっての大きな課題の1つが、革命遂行上の大難題である農民の取り扱いだった。1927年3月中旬から5月初旬にかけ国民党では断続的に会議が開かれ、その場で毛沢東ら共産党員の主張に沿って「土豪劣紳や軍閥などから土地を没収し、農村における権力を農民の手に取り戻す」基本方針を定めた。

これと並行して、共産党は武漢で第5回全国大会を開いた。つまり毛沢東ら共産党員は、同じ時期に国民党と共産党の双方にとって重要な会議を開催し、会議をリードしたことになるわけだから、話がヤヤコシクなってしまう。

この時、?介石は総司令として国民革命軍を率いて北伐中であり、破竹の勢いで長江流域を制圧し上海に乗り込み、1927年4月12日、共産党が敵視する資本家の支援を受けて「上海クーデター」を敢行し、共産党勢力殲滅に乗り出す。4月18日には南京に入城し、南京に“もう一つ”の国民政府(南京国民政府)を打ち立てた。武漢に置かれた国民政府と国民党による一切の決定を不法とし、併せて国民党左派要員と国共合作によって武漢国民政府に参加している陳独秀を筆頭とする共産党員の総計200人ほどを指名手配した。

これに対し武漢国民政府は独自の北伐を開始する一方、?介石を「総理(孫文)の叛徒、我が国民党の敗類(クズ)、民衆にとっての?賊(ゴクツブシ)」と糾弾している。

国民党の分裂によって、国民政府は?介石率いる南京国民政府と汪兆銘をトップとする武漢国民政府に分かれたばかりか、北京では張作霖を筆頭とする軍閥政権が蠢動していた。まさに同時期に3つの政権が存在したことになる。

これからヤヤコシさが増すのだが、中国共産党第5回大会(4月27日から5月6日)終了から10日ほどが過ぎた5月中旬に開催されたコミンテルン執行委員会で、共産党に対し国民党左派(武漢国民政府)との連合に加え武装土地革命が指示されたのである。《QED》


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