――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘71)
「中國共産黨の新理論」(昭和2年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房)
『橘樸著作集第一巻』の最終章は「� 中國共産黨の初期『土地革命』方略に關する考察」と題し、1927、28(昭和2、3)年に雑誌などに発表された論文――「中國共産黨の新理論」、「國民黨の再分裂」、「武漢政府失敗の二大因由」、「武装暴動の理論及び實際」、「勞農政權樹立への新方略」、「中國共産黨土地問題黨綱草案批判(二)」、「中國共産黨方略の正常化」――が収められている。
この時期の中国は、現在と同じように国際社会を揺さぶっていた。
中国革命に対する指導をめぐってスターリンとトロツキーの間で激しい対立があり、コミンテルンの方針も国民党(左派)の位置づけと武装土地革命の是非を巡って揺れ動いた。国民党左派が組織した武漢政府を支持した(27年5月)かと思えば、武漢政府からの共産党員の退出を指示したり(27年7月)。かくて第一次国共合作は崩壊する。27年5月には武装土地革命を指示しながら、29年2月には「革命は退潮期に入った」と指摘し、武装闘争を進めた瞿秋白ら指導部を「一揆主義」と批判するなど、コミンテルンの方針は首尾一貫していない。
毛沢東が共産党内の権力闘争を勝ち抜き実権を掌握するのは1930年代半ば以降のことだが、1927年2月に農民運動の重要性を示した「湖南農民運動視察報告」を発表し農村での革命を唱えた。第一次国共合作崩壊を踏まえた共産党は同年8月に瞿秋白を中心とする新指導部を構築し、活動の重点を土地革命と?介石率いる国民党への武装反攻と定めた。もちろん最重点は農民による秋の取入れを狙った「秋収蜂起」と呼ばれる農民暴動である。
毛沢東は同年9月に南昌を中心に秋収蜂起に決起したが、モノの見事に失敗。1000名弱の残存兵力と共に、命からがら湖南省と江西省の間の山間僻地の井岡山に逃げ込んだ。後に人民解放軍の生みの親となる朱徳と合流し、28年5月に紅軍(工農革命紅軍第4軍)を組織する。同地は毛沢東正統史観から「革命の聖地」と呼ばれるが、実態は敗残兵が逃げ込んだ山塞といったところか。
この時期、陝西、河北、河南、湖北、江西、広東など中国中央部の各地で共産党は農民蜂起を試みたものの、悉く失敗に終わってしまう。
27年3月24日、?介石麾下の国民革命軍が北伐途上での南京占領に際し、英米軍艦が南京市街を砲撃した(「南京事件」)。4月18日に?介石が南京政府を樹立し、翌5月28日には日本が第一次山東出兵に踏み切った。1年後の28年5月、済南事件が発生した。28年11月にはアメリカは?介石率いる南京の国民政府を正式承認している。
中国国内をみると、南京に拠った?介石の目指す国内統一は先行き不透明なままであり、共産党も革命方針をめぐって内部対立が激化する。これにコミンテルンが絡んで、事態は紛糾の度を加える。
まさに橘が共産党関連の論文を連続的に世に問うた時期は中国を舞台に内外諸勢力の思惑が交錯し、1949年10月の建国まで続く疾風怒濤の時代の始まりでもあった。であればこそ、チャイナウォッチャーとしての橘の“眼力”に注目してみたい。
「中國共産黨の新理論」は、1927(昭和2)年5月上旬に漢口で開かれた共産党第5回全国大会(中共五全大会)で採択された「新たなる態度及び理論」について論じている。
冒頭で橘は「新たなる態度及び理論」を明らかにした「宣言書が最近私の手許にも届いた」と記す。大会は5月で、この論文を掲載した雑誌『滿蒙』の刊行が8月。ということはかなり早い段階で宣言書を入手し、短期間で論文を書き上げたと考えられる。果して橘は、相当に確度の高い情報ネットワークを共産党周辺にまで広げていたのだろうか。《QED》