――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘75)「國民黨の再分裂」(昭和2年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房)

【知道中国 2115回】                       二〇・八・仲一

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘75)

「國民黨の再分裂」(昭和2年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房) 

橘が「中國共産黨農民運動の根本的なる確定政策」と評する農村における土豪劣紳(=地主)打倒方針の背景には、武漢国民政府の影響が及ぶ湖南・湖北・江西・広東など共産党の指導で農民運動が拡大していただろうことは想像に難くない。

だが1927年5月下旬になって、国民党左派系の国民革命軍(北伐軍)の一部が動き湖南省における共産党の農民政策を頓挫させてしまった。だが、「(国民党左派の)中央黨部はこれに對して斷然たる措置を執る勇氣又は權威を示すことが出來なかつた」。これに猛反発した共産党は、国民党左派に対し共産党に敵対する湖南省内の反動勢力を取り締まると同時に、「勞働者、及び農民組織竝に共産黨が湖南に於て完全なる自由を享受し得る」ような保障を逼った。

橘は「湖南・湖北の無産運動に於ける共産黨の重大な過失」はあが、共産党の主張は「合理的であり」、「中國現時の實状に適し」、「三民主義的であ」り、「少しも所謂共産主義的臭味を帶びないものである」と見做した。共産党の意向を受け入れたゆえに、国民党左派は北伐で軍功を挙げた唐生智に湖南省における「一切の善後策を任せ」たというのだ。

ところが6月中旬から7月初旬にかけ、情勢は一変してしまった。当初は共産党に同情的だった唐生智だったが、一転して共産党制圧に舵を転じた。それというのも唐生智の容共姿勢に乗じ、共産党が唐は共産党の行動を容認すると強く宣伝し、農民武装組織を動かし始めたのだ。この時点で、湖南省省都・長沙において共産党に対する不安・恐怖の感情が沸き起こり、当然ながら唐は一気に共産党制圧に乗り出すことになる。かくて唐生智の行動は「左翼國民黨と中國共産黨との間に、意外に大きい裂痕を遺すことゝなつた」。

どだい共産党員がそのまま国民党に参加し、?介石に反対する汪精衛らを軸とする国民党左派と共に武漢国民政府という一つの政府を組織・運営することは最初から無理だった。

当時の国民党左派指導者の心情を、「共産黨の壓迫を感じて、心窃かに不滿を抱いていたに相違ない。單に個人的感情ばかりでなく、国民黨の革命指導權を擁護し、所謂三民主義の完全なる實現を期する爲にも、彼等は今少しく共産黨の干渉から解放される必要があると痛切に考へたことであらう」と、橘は推測する。つまり国民党左派は控えめに過ぎ、共産党はやり過ぎた。これを言い換えるなら汪精衛ら国民党左派は「孫文の遺訓」に縛られ身動きならず、共産党は孫文が踏み込んでしまった連ソ容共を逆手に取って、遣りたい放題に振る舞った、ということだろう。

やはり混乱の根源を求めれば、行き着く先は孫文となるだろう。だが、なぜか橘は「偉人孫文」などと綴り、孫文の責任を追及しようとはしない。不思議だ。今になれば孫文を批判する声は日本でも聞かれる。だが当時、北一輝以外、孫文を明確に批判した日本人は見当たりそうにない。何故だろうか。あるいは孫文は稀代で壮大な詐話師だったのだろう。いずれにせよ彼が一筋縄ではいかない革命家だったのかもしれない。もっとも革命家とはそういった“人種”なのだろうし、自分で自分を騙せるような摩訶不思議な性向の持主ででもないかぎり革命などは覚束ないに違いない。

連ソ容共にせよ国共合作にせよ、とどのつまりは共産党は国民党の庇を借りて母屋を乗っ取ってしまった。だから「農民協會及び工會は、名義上國民黨の民衆團體となつて居ても、その大部分は事實上共産黨又は國民黨籍を有する共産黨員の壟斷に歸して居る」。それというのも「國民黨首脳者の中に熱心且つ勇猛な無産者運動の指導者を有して得なかつた當然の結果である」。国民党が自ら敗北の種を播いていた。ならば自業自得だろう。《QED》


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