――「理屈に拘泥せざる支那人の心境を、余は面白しと感じたり」――遲塚(3/5)遲塚金太郎『新入蜀記』(大阪屋號書店 大正15年)

【知道中国 2037回】                       二〇・二・念六

――「理屈に拘泥せざる支那人の心境を、余は面白しと感じたり」――遲塚(3/5)

遲塚金太郎『新入蜀記』(大阪屋號書店 大正15年)

「排外、殊に排日の氣分はめて濃厚なりとの情報を得たる爲め」、長沙からの遡上を控えた。だが黙っていても旅は前に進む。「人口六十萬の大都會な」る重慶に向かう船に乗り込む。川面から市街までは折り重なる階段を登っていかなければならない。「登れば厚き城壁を繞らして、兵銃を執つて、城門を警備す、何となく小氣味惡し」。

じつは前日の薄暮、重慶を手前にした万県でのことだ。船中から眺めていると、左岸の広場で「一隊の兵士が十一名の兵士を索き來りその七名を銃殺し、四名を例の青龍刀にて馘首したる殘虐の光景を船の甲板の上より眼のあたり望見したり、更に眼を右岸に轉ずれば、そこにも人の群集まれり」。目を凝らすと、「黑牛を水濱に牽き出し」て4本の足を堅く縛り、押し倒した首の下に盥を置き、「新月形の肉庖丁を閃めかして咽喉めがけて斫り裂」いた。群衆は両岸ともにヤンヤの喝采である。怖いモノ見たさのヒマ潰し。娯楽デス。

「昔より殘忍なることに慣れたる支那」であれば日常茶飯事であろうが、「江を夾んで一方にては人を殺し、他方にては牛を屠る、この邦ならでは見る能はざる光景なり」だった。

断崖上の街である重慶にとって水は大難題だ。水汲み人足は高い階段を下り、街を囲む揚子江と嘉陵江の「江濱より水汲み入れし木桶を擔ふ」て市街地まで運び上げて売り捌く。

桶から滴り落ちた水は階段を伝って流れ落ちる。「處嫌はず撒し放す糞尿の汚水と共に、路の乾く暇もなし、六十萬の人達は皆味噌汁のごとく黃濁したる長江の水を汲み、甕に盛りて明礬を加へ、澄まし淨めて飲料水となすにてあり」。

そういえば文久2(1862)年に千歳丸で上海に出掛けた高杉晋作らも、水の汚さ、明礬を使って濾過する水に驚くと共に、その水に当たって何人かの水夫が客死していることを記している。その時から60年以上が過ぎても、中国人は相変わらず「黃濁したる長江の水」を水を口にしていたわけだ。

遲塚の旅行の5年ほど前の1919年4月、北京では学生らが中国には「徳莫拉西(=デモクラシー)」と「賽因斯(=サイエンス)」がないと叫んで五・四運動を展開したが、60余年前と変わらずに明礬を使っているようでは、たしかに中国に「賽因斯」はない。とは言え明礬を使うことが「賽因斯」であると言われたら、二の句は継げないが。

重慶の市街を散策する。

「乞食の多きこと驚くべし、轎を追ひつゝ老爺と呼んで哀を乞ふ、飢えて死するものも亦多し、隨所に死屍の橫たはるを見れども路行く人はこれを怪しまず、兵隊は無數なり、各町内の廟宇を占領してこゝに舎營し、日常の物資はこれを附近の商家より徴發し來りて錢を拂はず」。まさに「好鉄不当釘 好人不当兵」。だからこそ「不好人当兵(ゴク潰しが兵士に。兵士はゴク潰し)」だったのだ。

街を歩いて居るとラッパの音である。すると誰もが走り出す。そこで遲塚も走った。すると目の前に「髪をおどろに振り亂したる垢面の一囚人の高手小手に縛されしを、一隊の兵士が警護しつゝ練行くなり」。「囚人の背には卒塔婆形の木札を結ひつけ、札の面にその罪状が記されたり」。罪状はともかく、囚人は市中引き回しのうえ、やがて市の中央へ。「淫は衆惡の元、孝は百行の本と彫られたる石碣の下にて、青龍刀の露と消ゆるなりといふ」。

やがて執行である。

囚人の「顔の色靑ざめたれど、眼のみは血走りて鬼灯の如し、兵士の後より踉きながら、たどたどと歩みつゝ、環り視る市の人を睨め廻して、白き齒を剥き出し、皺枯れたる聲を張り揚げて、何やら言ひ罵る」。無実を訴えようというのだろうが、この先の刑場で繰り広げられる残酷劇を見るに忍びないと、遲塚は「疾く疾く轎を促して家路に向へり」。《QED》


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