――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(25)
上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
伊東の旅も興味深いが、この辺で本題の上塚に戻り、「揚子江流域に於ける列國の鐵道利權競爭」について綴った「列國覇權夢の跡」に移りたい。
「緒論」で上塚は、「支那に於ける列國の政策は、愈出でゝ、愈辛辣を極め、自家勢力の此の地に扶植せんが爲めには、其の手段を選ばずに猛進したのである。其の結果、今や支那國は縱橫無盡に外國人の侵す所となり、之が内部に於ける諸種の混亂と相俟つて、支那をして益々紛糾せしむるの種を蒔いて居る」と、列国の利害が錯綜する当時の概況を綴る。
それに続き、「支那を圍る國際政治は、今や非常なる急速度を以て展開しつゝある。然も展開の度毎に、我が日本は難局に向つて突進しつゝある事は事實である」と、先を見通せないままに困惑するばかりの日本の姿を指摘し、ならば「此の際、揚子江流域に於ける鐵道を中心としてなされたる、利權競爭の跡を辿つて、列國侵犯の繪物語を廣げて見る事も、強ち無意義での事ではあるまい」とした。
そこで理解の大前提として「近時に於ける列國對支政策の變遷に就て一言を費やさねばならぬ」と考える上塚は、先ず「租借地獲得の時代」、次いで「利益範圍劃定の時代」、最後に「鐵道利權設定の時代」の3期に分けて詳述する。
「鮮血淋漓たる支那侵犯の歷史は、日清戰爭に依りて其の序幕を開く」。ならばこそ列強による「支那侵犯の歷史」に、日本は大きく関わっているのだ。
なぜ「鮮血淋漓たる支那侵犯の歷史」の幕が切って落とされたのか。それは衰えたとはいえ「東亞の雄國として立たしむるには十分であつた」はずが、「名も無き東方の一小國から擊破せらるに至」たからだ。その時の西欧列強の姿は、まさに死肉一歩手前の衰えたる巨象に群がるハイエナだった。
「當時露國は、其の鋭鋒を太平洋沿岸に向け、着々として自己勢力を、西比利亞の天地より、滿洲並北支那方面に延し、且歐露と太平洋とを連絡する西比利亞鐵道の敷設にかかつて居つた」。まさに「東方大發展計畫の一部」である。そんなロシアに絶好の機会を与えたのが日清戦争である。そして「露國の眼中固より我が日本は無」く、「其の胸は只炎々たる大野心の焔に燃えて居た」。
次にドイツだが、「所謂黃禍の幻影に脅されて居つた」ところの「『カイゼル』の眼には、日本の勝利は極東に於ける軍備の新興なりと映じた」。いまの内に日本の意図を挫いておかなければ「極東に於ける歐羅巴人は追放せられ、又歐洲自體も侵略せらるべき時期到るべしと考えた」。そこで三国干渉に打って出たのである。その裏側では、じつはシベリア鉄道の満洲北部横断線建設が暗々裏に着々と進んだ。
スランスは「南支那に於て、鑛山利權と鐵道利權とを得、且新に其の國境を改正して其の活動に便ならしめた」。
イギリスは「佛の要求に狼狽して、俄に緬甸國境を協定した」のである。
このようにしてロシア、ドイツ、フランス、イギリスによる「列國覇權」の基本構図が出来上がった。もちろん、まだアメリカは表立っては露骨な動きを見せてはいない。
先ずドイツが動く。「一八九七年、山東に於ける二人の獨逸宣敎師の殺害を名として膠州灣九十九年ケ年の租借權を得た」。山東省の死命を制する要衝を得たことで、「模範的の市街地靑島を建設し、要塞を築くと共に、港灣を改修し、且此の地を起點として、鐵道を建設し始めた」。けだしドイツ版の一帯一路といったところか。
次いでロシアが旅順・大連を、イギリスが威海衛と九龍を、フランスが広州湾を強奪し、それぞれが力を前面に押し立てて「列國覇權夢」の実現に向けて動き出した。《QED》