――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(17)
上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
周囲を高い山脈に囲まれた四川では西南から東北に長江が流れ、烏江、岷江、沱江、嘉陵江の4本の河――四川の地名の由来である――が縦横に走る。このような自然豊かな巨大な盆地であればこそ、「所謂千里の沃野天府の地」と呼ばれる。その四川にあっても「最も膏沃なる地方と稱せらるゝ成都重慶間を結ぶ交通幹路」である東大路を旅する。
「東大路の名物は乞食と旌表門である。乞食は至る所形勝の地に占據して、通行客に施錢を乞うて居る。其の數は誠に夥しい數に上るのである」。「最も膏沃なる地方」だからこそ、その豊かさを求めて周辺の貧しい地方から貧民が押し寄せて来たに違いない。
封建王朝時代には、儒教道徳の精華を体現したような善行者の名前を公示し、朝廷や地方長官が広く顕彰した。これを一般に旌表と呼び、旌表の証として村の入口など目立つ所に建てた意匠を凝らした門を旌表門と呼んだ。いわば旌表門は、ここは善行者を生んだ素晴らしい集落だ。この集落の誰々が善行を積んだ、ということを広く内外に誇示するための標識ということになる。その旌表門が「實に立派なもので、其の精巧、華麗は他の省に於て絶えて見ない所である」とは、やはり東大路が豊かであることの傍証でもあるわけだ。
だが、誰に知られることもなく為すべきを為すことが善行というものだろう。こう考えるなら、麗々しく旌表門を建ててまで、広くこれ見よがしに善行を訴えねばならないということは、それだけでも善行者が稀にしか現れなかったことを意味しよう。
孔子の時代から「巧言令色鮮し仁」とも「剛毅朴訥は仁に近し」とも言われてきたが、これ見よがしに建てられた旌表門は恰も「巧言令色」に近く、また「剛毅朴訥」とは限りなく遠いように思える。いわば旌表門は仁とは馴染まないはずだ。かりに善行を根柢で仁が支えているとするなら、旌表門は余り褒められた建造物とは言えそうにない。もっとも善行と仁とが無関係ならば、それまでではある。
以下は、「所謂千里の沃野天府の地」と呼ばれる四川にあっても「最も膏沃なる地方と稱せらるゝ成都重慶間を結ぶ交通幹路」である東大路の旅宿での体験だ。毎度ながら汚い、汚い、嗚呼汚いの連続ではある。
「部屋内は一面土間であつて日光の透かしが良くないから常に濕つて居る。天井は屋根裏で天井板を嵌めたのは殆ど見當たらない。毎日の掃除は土間の一角に止つて居るので天井、壁、戸等には塵や蜘蛛の巣が一杯で、旅馴れぬ人には、一見惡寒を催さしめずには措かない」。じつは旧い中国家屋は日本家屋のように天井板が張ってない。土間に立って見上げれば、目に入ってくるのは瓦の裏側とその瓦を支える梁だけ。簡便至極の構造だ。
宿の調理場は街路に面した店頭にある。そこで「洗ひ流した汚物は何の遠慮も無く悉く街路の上に運ばれる」。ゴミ捨て場然とした街路は「臭氣紛々、一見直に嘔吐を催さしめる」。こんな惨状を見せつけられたら、「運んで來る飯も咽喉を通らぬのであるが、矢張り眼をつぶり觀念して食べる内に馴れて來る」。
確かに「矢張り眼をつぶり觀念して食べる内に馴れて來る」ものだ。半世紀ほど昔の香港の屋台でのこと。目の前の箸立てに張ったクモの巣も、誰が使ったか分からないうえに油でギトギトにコーテイングされたような(ということは絶対に洗ってはいない)箸でも、「矢張り眼をつぶり觀念」すれば、いつしか気にならなくなってしまうもの。屋台のオヤジの青っ洟が付いた土司(トースト)だって、その部分をちぎって捨て去れば、「矢張り眼をつぶり觀念して食べる内に馴れて來る」ものだ。経験者が言うのだから間違いない。
まあ厠だって「矢張り眼をつぶり觀念」すれば、その「内に馴れて來る」ものではあるが、そういかない時もある。宿の母屋の裏手が厠房、つまり大小便所だった。《QED》