――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(14)上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

【知道中国 1996回】                      一九・十二・初七

――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(14)

上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)

 いわば西欧列強クラブ入りを果たしたものの、人種差別を含む彼ら共通の“暗黙のルール”に疎かった。敢えて誤解を恐れずに表現するなら、千代田城内における立ち居振る舞い関する言外のルールを熟知している吉良上野介とその仲間を前にした浅野内匠頭の関係である。イジメをイジメとも思わず、強引に決められた規則であっても素直に守ろうと我慢に我慢を重ねる浅野ではあったが、いつしか我慢の限界、いわば回帰不能点を超えてしまい、やがて「松の廊下における刃傷沙汰」へと繋がったのでは。

 ワシントンやらロンドンにおける軍縮会議にしても、欧米列強のイジメに我慢を重ねた日本だが、ことABCD包囲網やらハル・ノートに至って堪忍袋の緒が切れた。せめて一太刀喰らわせねば、である。

 さて、上塚の旅に戻は沙市から長江を遡って宜昌へ。景勝地の三遊洞に出掛けた。

 「洞を下れば、渓水に臨む所一屋ある、もと獨人の有なり。近時暴兵の爲めに破壞せられ、未だ修繕の暇無く放置されたり。はからずして日本婦人二名余等を見てニコヤカに迎ふ。即ち至れば二婦人の外に一外人あり」。40歳前後のドイツ人だ。「余等を遇する事極めて慇懃なり」。長崎滞在の経験のゆえに、殊に日本人を親しく思うとのこと。第1時大戦中も「孤獨を守り、遂に歸還せずして宜昌に止まりしと云ふ」。かくて「意氣の壮なるを思ふべし」と。どうやらドイツ人は、ちょっとやそっとのことでは逃げ出さないようだ。

 それにしても、この「日本婦人二名」は、なぜ三遊洞に。ドイツ人との関係は如何。

 宜昌を離れた上塚は、宜昌峡、黄牛峡、??峡、牛肝馬肺峡、巴峡、巫山大峡、瞿唐峡を経て、やがて「酒仙李白が詠じ」、「蜀主劉備が陣没の地として史實の上に顯著な」る白帝城に臨んで、「嗚呼君逝きてより二千年、治亂興亡、國を更ゆる事幾百度ぞ。然も君臣至誠を以て相許したる世に此の如きを知らず。秋霜天地を震ふの遺烈は、大江の流と共に限り無く、千載の下人をして感奮した起たしむ。吾れ今東海より來つて其の跡を訪へば、廟前の老樹心ありてか中空に鳴る。懷舊何ぞ去るに忍びんや。嗟々『人生勿爲讀書子。到處不堪感涙多』。」と綴り、「至誠一貫先帝の遺託を守り、孤を擁して南戰北伐、七十にして陣中没する迄、一意社稷を念としたる義心」の人たる諸葛孔明への思いを晒す。

 どうも日本式の漢詩・漢文教育で育った往時の日本人は、そこに過剰なまでの思い込みを託しがちだ。諸葛孔明に対し劉備が示した「三顧の礼」にしても、「目上の人が格下の者の許に何回も出向き、辞を低くして手助けを依頼する」とされる。断られても断られても諸葛孔明の廬に足を運ぶ劉備も偉いが、自らの浅学菲才を知るがゆえに出仕を辞退する諸葛孔明の姿も美しい。かくして2人の関係は君臣水魚の交わりへと昇華し、諸葛孔明の「一意社稷を念としたる義心」が貫かれた、ということになる。

 だが考えてみれば、出仕を断った相手の許に何回も出向く劉備もどうかと思うが、何回も断ることで相手を試し、自らを高く売りつけようとしたと思える諸葛孔明の魂胆も好きにはなれない。やはり日本人が中国古来の英雄物語を日本式に読み解くことを止め、常識を働かせていたならば、日本人の中国理解も少しはマトモであったはずだ。

白帝城を少し遡行した辺りで、上塚は「夜に乘じて、一妓、胡弓を彈ずる男一人を從へ、輕舟を浮べ、流弦して上下」する「妓船」に出会う。「唱燈兒」を称する妓女が乗り込み、「客の呼ぶあれば、曲目を書せる扇子を出し其の擇ぶに任せ、手に竹版を拍つて歌ふ。聲は切々測々として遠く渡る。蓋し千古の風流なり」。

やはり日本人は諸葛孔明の「一意社稷を念としたる義心」を賛仰する前に、「千古の風流」を大いに楽しむべきだ。その方が、より深い中国理解が得られただろうに。《QED》


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